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叢桂亭医事小言

麻疹
麻疹考曰、麻疹の我邦に流行せし其始未詳、〈和漢とも往古はなくて、中古夷狄より伝染せしものヽやうに雲伝へるは信じがたし、往古は温疫の内に混じて、わかれざりしことは、既に痘瘡の下に断るが如し、漢土の方書お按ずるに、疱瘡は先だちて見へ、麻疹は後れて見ゆれども、麻疹も、疱瘡に混じて有しにやと思るヽ也、〉正しく露顕せしは、聖武天皇の天平九年、〈享和三年より千六十七年前〉其後は一条院の長徳四年、〈享和三年より八百六年〉次は後一条院の万寿二年、〈長徳四年より二十八年〉次は白河院の承暦元年〈万寿二年より五十三年〉也、此こと天平九年の官符、及日本紀略、扶桑略記、百練抄、栄花物語等に見へたり、〈○中略〉
又悩人〈乃〉背〈仁〉、此七字可書之、麻子瘡之種我作雲々、〈太田蕈曰、此官符の病状、麻疹にして、痘瘡にあらず、特に悩人の背に書く文字に、麻子瘡といへるは、全く麻疹のことなるべし、弘賢曰、拾芥抄に療治疱瘡方と標題して、此官符お載られたるは、古は麻疹も疱瘡も混じて有しなり、乃医心方に豌豆瘡の下に、此官符お引たるに拠られしなるべし、さて天平九年に、斯の如く、官符お下されしお以て考ふれば、猶さき〴〵よりも有しなるべし、漢土にて麻疹の治方お正しく著せしは、趙宋の初なり、然ば則我邦麻疹の行はるヽ漢土に先だつに似たれども、恐らくは漢土の古もありしならん、傷寒論の癮疹、金匱要略の陽毒などヽいへる症の内に、麻疹も混じけるも知るべからず、○下略〉