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叢桂亭医事小言

麻疹〈○中略〉
麻疹流行する時に、東岳公〈中山備前守信敏の号也〉より尋問たる答書おこヽに載て、治療には、何も六け敷事なきお示す、麻疹流行仕り候に付、御手当の為に委細申上べきと、遥に仰下さる、不才寡聞のやつがれ、申べき所いかで備へ玉ふことの用に立んことは、固よりなれども、いつも下問お好ませ玉ひて、博く問ひ求め玉ふことなれば、敢て辞し奉んは恐あり、此地も麻疹一般に行れて、筆お採の暇なし、其詳なることは、一時に記し奉るべきに非ず、夜半病家見舞て帰り、灯下にあら〳〵記して奉る、抑やつがれ赤子の時に、麻お患候由にて、当廿八年前に行れぬる麻疹の節より治療お試る所、殊に軽易の病にて、方書にも痘瘡の後に附載して、格別心やすく覚へ候、夫れ麻と唱初たる名は、宋の時の方書に見へて、宋以前には無き病にも有ん歟なれども、医方未だ明白ならざる時にて、委く記せる典籍なし、痘瘡は、隋の時に其名いでたれども、其薬方はなし、唐の孫思貌の千金方には、傷寒の後豌豆瘡お発するお治する、始て薬方見へたり、序熱お傷寒と見立候ことにて、痘の病証猶いまだ明白ならず候ゆへ、是又宋の時に治法もくはしく出来ける、麻疹は痘よりも先だちて、古もあらんなれども、常の瘡疥と見なしたるにも之あるべきと覚へ侍る、痘瘡は本朝に伝来も、たしかに史籍に載て、委くは先に著す所の偶記と申拙著に考おき候、麻は天平九年の官符、医心方傷寒後発豌豆の候に載候得共、是は痘瘡にはあらで、麻疹の官符ならんと存ぜられ候、嘉暦年間の人にて、鹿苑院に奉仕してける、梶原性全と雲へる者の、万安方頓医抄と申二書に記せり、外に和方書考るものなく、性全より以前いかやうに治療仕候や、僕いまだ是お見侍りぬることなし、千金方に、仲景の傷寒論お引て、升麻湯と雲へる薬方お載たり、其証治曰、陽毒の為病、面赤斑々如錦文、咽喉痛、睡膿血、五日可治、七日不可治となり、金匱要略に書載たれども、加鼈甲て升麻鼈甲湯と見へたり、金鑑に此文お註して曰、可知仲景不用大熱大寒之薬、此一証、今世俗所謂痧証是也、非後人所命陰寒猛毒也と見ゆ、痧と申は麻疹の一名にて候、左あれば、後漢の時は、陽毒と唱へ候もの、麻疹にも有べき也、其病因と仕り候所は、諸の書に論説多く候得共、如何のわけにて、数年お越て行るヽや、数度の流行おのがれて、極老に至て患候も有之や、一生涯一度患候得ば、仮令百歳に余る齢おたもつとも、再び患ることなく候や、痘瘡は土地方偶に行れぬ所多けれども、 麻疹は海内一時一面に残る所もなく行れ( ○○○○○○○○○○○○○○○○○○) 候事、如何なる毒お畜へ、如何なる歳運に乗じて行るるや、人智にて計知べからず、論弁は多の古名医其理お窮といへども、皆是紙上の空論にて、無益に似候、金匱に加鼈甲候は不面白、千金方に出たる方宜く覚候なり、扠又宋の時より用ゆる、升麻葛根湯と申候方は、古代の風お能組立候方にて、此一方にて事足ず、後世いよ〳〵方薬お設け、治療ます〳〵遷といへども、何も此升麻葛根湯よりは勝れず、又仲景の古より升麻お用ゆることにて、肘后方にも出せる、永徽年中、南陽お征し候時に、行卒共こと〴〵く瘡お発してけるに、虜瘡と名づけて、升麻一味お用て、是お治せしためしも御座候て、如此一般に、発疹の者には、升麻お宜とせしこと、古時に徴して知べし、〈○中略〉
毒忌は、貴地にては甚しと承る人の多が故に、多口するにや、又高貴の後庭物忌多き故に、自然と人間に移ることあり、医師も高貴の治療お指上るは、一きは念お入て、勧てもよからんと思こと、品味も禁忌するお、人間伝へ聞て、一面に毒と思もあるべし、抑貴人えは、大医ならでは、薬も進められぬもの故に、大医の申されぬる上はと、金科玉条に比し、遠く関外に流伝し、又手医師の薬お進むるも、是ぞ君の大事と禁忌厳重にする事、一家中に流布するも有るらん、仮令ば痘に山薬お禁じ、粥お禁ず、芋はいもの唱お忌む、自然生は善と雲、粥は痘つぶれ煉て柔かならんことお嫌ひ、又眼のしらかいに成事と雲言葉お忌む、鍋湯づけはよしと雲の類多し、貝お忌も、唱お忌ならん、進物にも、熨斗は用ひず、故に鮑魚はます〳〵禁ず、凡痘毒眼に入ぬれば、真球お用て治す、真珠は貝より出るもの也、故にやつがれは、何つも石決明お食せしむるに害なし、依て蛤お食せしむるに是も害なし、此度は麻疹は前年より毒忌おヽく申触すは、先年よりは、医師に人物乏く成たるにや、皆病因に、億せるならん、やつがれが家に患たるもの二十人に近く、今日まで食せしめたる品お、左に記してまいらせ侍る、〈○中略〉
河鰻、先年流行の時、京都山脇道作法眼より、蒲焼お食せし人、三人即死せると承りたまれば、告しらせ申と言贈ける故に、禁じけるに、又此度も死せる人ありと江戸より言触す、誰と雲る人なるや、たしかは不知といへども、かヽる事の侍るお忌ざる事は危と禁じてける、此外しん菊お喰せし人即死せりなんど申触せども、信じがたき事也、此地方にて食物の為に即死せる事は、いまだ承及ばず候、虚説なるらんと存候、〈○中略〉
房事禁ずべし、吉原の娼婦、麻後三十余日にて客に接して死せりと承る、可恐事也、此地若き夫妻の、共に麻疹したるも多き内に、何れも其慎厳なるや、其害に逢へる事は、未だ承わらず候也、享和三年癸亥六月十二日、原玄与謹対、