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赤斑瘡弁考証

按に、望月三英は、安永の比の名医なり、随筆一巻あり余〈○小山田与清〉その古写本お家に蔵す、疱瘡後のさヽ湯のこと、大猶院殿の御時、既に古例のよしなれば、むかしより有けんこと知べし、百練抄に、後深草院康元元年八月五日、煩赤斑瘡、二十五日御沐浴のよしあるは、廿一日目に湯あみし給ひしなり、吾妻鏡にも、赤斑瘡後沐浴のことあり、されどさヽ湯といふ名、古書にはおさ〳〵みえず、今の世は、疱瘡の後のみ酒湯のことあれど、いにしへは 赤斑瘡( はしか) の後も有けんよし、百練抄、吾妻鏡などによりておしはかられぬ、さて疱瘡麻疹ともに、結痂の後、湯あみせではあるまじきわざなれど、さヽ湯の作法などいふは、陰陽師巫覡などが仕出しにやあらん、さヽ湯といふも、新撰六帖、夫木抄などの歌に、 里巫女( さとみこ) が 御湯立( みゆだて) 篠のさや〳〵に、ともよみて、もと湯立に篠お用る神態あるお、やがて痘後のゆあみにもいはひて、その神わざの作法などまねびしゆえの名なるべし、さヽ湯に酒お加るは、酒の異名お 左々( さヽ) といへば、 篠湯( さヽゆ) お誤て、 酒湯( さヽゆ) ぞと心得しゆえのひがことなるべし、天保集成糸綸録《七十九完政十二申年九月
大目付〈江〉
大納言様、〈○徳川家慶〉御酒湯被為召候、為御祝儀明十三日、溜詰御譜代大名、高家雁之間詰、同嫡子、御奏者番、同嫡子、菊之間縁頬詰、諸番頭、諸物頭、布衣以上之御役人、御本丸〈江〉出仕、夫より西丸〈江〉可有登城候、猶服紗小袖麻上下可為著用事、
但病気幼少之面々者、月番老中出羽守宅〈江〉以使者御祝儀可申上事、
一右之外万石以上之面々者、月番老中出羽守宅〈江〉使者可差越事、
一在国在邑之面々は、飛札可差越事、
右之通、可被相触候、
九月十二日