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善那氏容徳之記
日本種痘の沿革
我邦には、誰人の創めしや、数百年前より、安房の国海辺の村落に、一種の種痘法行はれたり、其は天然痘の痂お採りて、人に種えしと言ふ、其後 延享年間( ○○○○) 、支那蘇州〈又は杭州といふ、詳ならず、〉の李仁山と雲へる人、長崎に来り、支那の種痘法お伝へたり、此法も天然痘の痂お粉末にして、鼻孔に吹き入るヽ者なり、次で 宝暦二年( ○○○○) 、支那より、医宗金鑑といへる大部の医書、我邦に伝はり、此書中に、精しく種痘の事お載せたれば、 安永七年( ○○○○) 、其種痘篇お抜萃して、種痘心法と題し、出版して世に公にせしより、種痘の事は、これより漸次に世に行はるヽことヽなり、 文化文政の頃( ○○○○○○) より、天保安政年間に至りて、此法大に行はれ、種痘家お以て名お成せし者も少からず、肥前大村の人長与俊達、芳陵英伯、筑前秋月の人緒方春朔、常陸水戸の人本間玄調、上総佐貫の人井上宗端、木下川の庄屋次郎兵衛、武州忍の人河津隆碩、江戸の人桑田玄真、及び桑田立斎等、熟れも皆種痘家お以て高名なりき、次に完政五年西洋種痘法の我邦に入りしや、和蘭人某、役人高木氏の望に依り、長崎に於て、此法お施せしお以て始めとす、支那の種痘法の伝はりしより後五十年に当れり、此法は天然痘の十分に膿お満てる者お破りて、其膿お鍼に塗り、小児の尺沢の静脈に刺して、後綿お占てヽ其上お布にて縛る者にして、善那氏の種痘法と異なる者なり、但し此法は、暫時にて中止せしが如くなりしも、二十年の後、江戸の医師桑田玄真、長崎に遊びて、西洋医書お学び、へすとるの種痘論お読むに至りて、大に其講ずべきお知り、先づ自分の子に之お試みて、益々之お拡め、其子立斎も、亦此法お伝へしと言ふ、