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牛痘弁論
牛痘の我が日本に伝はる未だ久しからず、今お距る二十八年、即ち嘉永二己酉年〈西洋紀元一千八百四十九年に丁る〉に在り、明治七年十一月発兌の坪井氏医事雑誌に曰く、牛痘種法の本邦に行はるヽや、既に二十五年〈○嘉永二年〉なり、是より先に、荷蘭来舶、痘苗お齎し来ること数回なれども、其貯苗法の粗なるが為め、月日お経ること久しきに由て、損敗するが為か、抑も之お種る所の医手拙なるが為か、能く感染して真痘お発する者なし、時医之お惜む、蓋し世上百事皆然り、創業の難き、其濫觴に於て、古人の大に辛苦する所察すべきなり、故の鹿児島侯〈○島津斉彬〉滋に憾あり、即ち厚く荷蘭人に贈て、始て新鮮の痘苗お求め致さしめ、其侍医に命じて、広く施行せしむ、府下始て之お施す者、戸塚静海子なり〈静海は初め薩侯の侍医たり、後旧幕府に仕へて法印に叙せらる、後〉〈退隠春山と称す、〉自後衆医之れお受けて種痘するもの日に増し、月に多し、各藩も亦た之れお伝へ、大に行はれて、今日に至れり、蓋し其術たるや、難からずと雖ども、其苗おして、伝播永続せしむるに於ては、大に難き所あり、百折千挫するも、其志撓まず、其気屈せざる者にあらざれば、此術お全ふし難し、従来痘医と称する者多しと雖ども、一年間、一二月若くは二三け月にして絶苗するに至る、而して此間能く勉めて巻まず、施して怠らざる者は、桑田立斎なり、〈越後新発田の産、深川万年橋畔に〉〈住む、〉自ら誓て、十万児に種痘せんとす、不幸にして、中年病に罹り、半身不遂に宿志お達すること能はず、然れども已に七万お過るに至れり、病間手尚ほ種痘針お放たずして遂に弊る、而して能く其志お継ぐ者は、即ち大野松斎なり、〈出羽秋田の産、浅草三間町に住む、〉刻苦勉励、暑寒お冒し、風雪お衝て、東西奔逐、為に寝食お廃すること数回、其志の厚き、施すの精き、立斎と相伯仲するものなり、嗚呼此法一起二十七年、連綿不断者は、此二子の力に依る、余二子に於ける、同窓の義あり、今一案お擬して、以て其篤志お全ふせんとす、〈○下略〉