[p.0945]
皇国医事沿革小史
後編第六期
安政五年〈紀元二千五百十八年〉東都に於て、伊東玄朴〈幕府の侍医法印長春院と号す〉竹内玄同、〈同侍医法印渭川院と号す〉戸塚静海〈同侍医法印静春院と号す〉林洞海〈同侍医法眼〉坪井信良〈同侍医法眼〉杉田玄端〈洋書調所教授職〉等、当時西洋医術お以て門戸お江戸に樹つる者八十余名、相謀て一社お神田〈於玉け池〉に設立し、専ら種痘術お施す、之お 種痘館( ○○○) と称す、次で館祝融の災に罹り、下谷〈和泉橋通〉に移す、文久元年〈紀元二千五百二十一年〉に至て、幕府其資お助け大に規則お改め、教授職お置て学徒お誘掖する所となし、 西洋医学所( ○○○○○)と改称す、時に大槻俊斎〈幕府の医官〉校務お督し、坪井芳洲〈後為春と改む〉島村鼎甫〈後鼎〉等お教授職と為す、俊斎没して幕府緒方洪庵お大坂より徴し、侍医法眼に任じ、医学所の頭取とす、洪庵没して、侍医法眼松本良順、其頭取及び教頭お兼ね、大に生徒の教育に力お尽す、生徒四方より麕集し、屹然大学の体お成す、是お東京大学医学部の原始とす、