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じえんなー種痘発明百年期紀念文集
種痘考〈○中略〉
大坂除痘館
嘉永二年、痘苗の京都日野鼎哉の許に著したりとの報あるや、大坂の緒方洪庵は、日野葛民と相謀り、十月晦日、一小児お携へ上京し、分苗お乞ひしに、日野、笠原も其志の篤に感じて、十一月七日、一小児お携へ、鼎哉同伴にて、下坂して之お分苗せり、是お大坂種痘法の嚆矢とす、洪庵乃ち日野葛民、中耕介、山田金江、原左一郎、村井俊蔵、内藤数馬、山本河内、各務相二、佐々木文中、緒方郁蔵等と謀りて一社お結び、金お醵して種痘の普及お図る、安政五年春〈四月廿四日〉に至りて、官許お得て、公然種痘お施行するに至れり、〈江戸の種痘所は、万延元年七月に許されたり、故に種痘の官許お得しは大坂お始とす、〉
京都有信堂
嘉永年間、楢林宗建、赤沢完輔、吉田図書、小石中蔵、馬杉立輔、長柄春竜、熊谷貞恭、江馬榴園等の諸家、種痘の普及に尽力し、富小路姉小路上る町に有信堂と雲へるものお創立したり、是お京都種痘所の濫觴とす、V 善那氏容徳之記〉H 日本種痘の沿革
嘉永二年の夏、肥前大村藩匕役、長与俊達氏は、長崎の通訳官西吉兵衛より、急使お以て、どくとる、もーにつけ氏の痘苗芽出度発痘したる旨告げ来りしかば、実に徹鮒の水お得たる心地、悦び勇みて、尾本凉海〈翁年八十許、今尚東京に在り、〉に孫女〈現在専斎君の妹〉及び未痘の家僕お附け、即夜長崎に遣はせり、斯くて日ならずして、尾本凉海は、首尾能く牛痘お種接し帰り来りければ、多年の宿望成就して、驪竜頷下の珠は手に入りながら、国の制禁厳重にして、直に植え広めん様もなく、常例の如く、 種痘山( ○○○) 〈時の人疱瘡お怖るヽことの甚しきにより、山林お区画して、此処にて種痘し来れり、恰も避病所の如きもの、〉お開きて、此所にて、種痘す
る事とは為しぬ、然るに此道の開くべき運にや、九月の初旬より、松原〈城下お距る二里許〉と言へる村に天然痘流行して、数人弊れにければ、村人驚き恐れ、危急の際に臨みては、平生の疑惑に拘はる暇もなく、牛痘の事お聞き伝へて、種痘お望む者多く、随て植継の便お得、且つ実地の経験滋に現はれ、九月下旬に至りて、其の評判喧伝して、松原近傍の村々より登山するに至りしといふ、〈○下略〉