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温知医談

医学修業次序〈七則〉 森立之〈○中略〉
解剖三 吾邦解剖お創造するや、宝暦中、医官山脇東洋〈道作〉西京に於て、宝暦四甲戌年閏二月七日、京兆尹酒井若州侯に請て、死刑の罪人の屍お獄中に解く、其後明和庚寅〈○七年〉四月二十五日、又西京の郊外に於て、荻野台洲門人古河医官河口信任おしてこれお解しむ、共に皆書お作て刊行す、臓志〈山脇〉解屍編〈河口〉是なり、其後享和壬戌〈○二年〉初冬、荻野の門人中達若村の二氏、官に請て解視す、其他天明癸卯の、橘南渓解く所、完政丁巳〈○九年〉の、柚木太淳、同戊壬の、小石解く所、皆成書あり、爾後小森桃塢、文化壬申、〈○九年〉文政辛巳、〈○四年〉両度解く、亦図説あり、解臓図譜と名く、文化文政の間、東京に在て、毎冬月千住小塚原に於て無宿人の刑屍お其手より買得て、社お結て解剖せし事あり、当時桂川の門派にて最盛に行はれ、余も此席に臨みし事数々なりし、西洋一千七百三十一年〈我が享保六年辛丑、清の康熙六十年也、〉大医学 与般亜単( よはんあだむ) 〈姓〉 闕児武思( きゆるむす) 〈名〉の撰する所の、 打係縷亜那都米( だーふるあなとみー)と雲ふ書お以て、解剖書の大成せる者とす、此書お訳して、漢文に綴れるは、杉田玄白の解体新書なり、解剖訳書は此お以て嚆矢となす、爾後今日に至ては、訳書陸続いよ〳〵精密お究む、今此等訳書お以て、素霊の奥義お説解するときは、啻燃犀のみならず、殆んど顕微鏡の微お顕はすに伴しものあり、
此闕児武思の時〈享保六年辛丑〉より、僅に三十三年お経て、山脇東洋〈宝暦四年甲戌〉の臓志成り、又二十年お経て杉田玄白〈安政三年甲午〉に解体新書刊行せり、当時文運の駸々たる亦想像すべしとす、