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蘭学事始

抑、頃は三月三日の夜と覚へたり、時の町奉行、曲淵甲斐守殿の家士、得能万兵衛といふ男より、手紙もて知らせ越せしは、明日手医師何某といへる者、千住骨け原にて、腑分いたせるよしなり、御望あらば、彼方へ罷り越れよかしと言文おこしたり、兼て同僚小杉玄適といふもの、其以前、京師の山脇東洋先生の門に遊び、彼地に在し時、先生の企にて、観臓の事ありしに、此男に従ひ行て親しく視たるに、古人諸説皆空言にて、信じがたき事のみなり、上古は九臓と称せり、今五臓六腑の目お分ちたるは、後人の杜撰なりなんどいへる事の話もありし、其時東洋先生臓志といふ著書おも出給ひたり、翁〈○杉田玄白〉其書おも見し上の事なれば、よき折あらば、翁も自ら観臓してよと思ひ居たりし、此時和蘭解剖の書も、初て手に入し事なれば、照し視て、何れか其実否お試むべしと、喜び一かたならぬ、幸の時至れりと、彼処へ罷る心にて、殊に飛揚せり、扠斯る幸お得し事お、独り見るべき事にもあらず、朋友の内にも、家業に厚き同志の人々へは、知らせ遣はし、同じく視て、事業の益には相互になしたきものと思ひ量りて、先同僚中川淳庵お初、某誰と知らせ遣はせし中かに、良沢〈○前野〉へも知らせ越したり、〈○中略〉其翌朝とく支度整ひ、彼所に至りしに、良沢参り合、其余の朋友も、皆々参会し出迎たり、時に良沢、一つの蘭書お懐中より出し、披き示して曰く、これは是たーへるあなとみあといふ、和蘭解剖の書なり、先年長崎へ行きたりし時、求め得て帰り、家蔵せしものなりといふ、これお見れば、即ち翁が此頃手に入りし蘭書と同書同版なり、是れ誠に奇遇なりとて、互に手おうちて感ぜり、〈○中略〉これより各打連立て、骨け原の設け置し、観臓の場へ至れり、扠腑分の事は、穢多の虎松といへるもの此事に功者のよしにて、兼て約し置しよし、此日も其者に刀お下さすべしと定めたるに、その日其者俄に病気のよしにて、其祖父なりといふ老屠、齢九十歳なりと雲る者、代りとして出たり、健なる老者なりき、彼奴は、若きより、腑分けは度々手にかけ、数人お解たりと語りぬ、其日より、前迄の腑分といへるは、穢多に任せ、彼が某所おさして、肺なりと教へ、これは腎なりと切り分け示せり、夫お行き視し人々、看過して帰り、我々は直に内景お見究めしなど、いひしまでの事にてありしとなり、固より臓腑に、其名の書記してあるものならねば、屠者の指し示すお見て、落著せしことにて、其頃までのならひなるよしなり、其日も彼老屠が、彼れの此れのと指し示し、心肝胆胃の外に、其名なきものおさして、名は知らねども、己れ若きより数人お手にかけ、解き分けしに、何れの腹内お見ても、此処にかやうの物あり、かしこに此物ありと示し見せたり、図によりて考れば、後に分明お得し、動血脈の二幹、又小腎などにてありたり、老屠又曰、隻今まで、腑分の度々、其医師がたに、品々おさし示したれども、誰一人某は何、此は何々なりと疑れ候御方もなかりしといへり、良沢相倶に携へ行し和蘭図に照し合せ見しに、一として、いさゝか違ふ事なき品々なり、古来医経に説たる所の、肺の六葉両耳、肝の左三葉右四葉などいへる分ちもなく、腸胃の位置形状も、大に古説と異なり、官医岡田養仙老藤本立泉老などは、其ころまで、七八度も腑分し給ひし由なれども、皆千古の説と違ひしゆへ、毎度毎度疑惑して、不審開けず、其度々に、異状と見しものお写し置れ、つら〳〵思へば、華夷人物違ありやなど著述せられし書お見たる事もありしは、これが為なるべし、扠其日の解剖事終り、とてもの事に骨骸の形おも見るべしと、刑場に野ざらしになりし骨共お拾ひとりて、かず〳〵見しに、旧説とは相違にして、隻和蘭図に差へる所なきに、皆驚嘆せるのみなり、