[p.0972][p.0973][p.0974]
形影夜話

此邦にて、艮山後藤氏、一見解お立て、内経お看破し、右の如き迂怪の説共お駁せんとする為にや、一向に経絡は無用の物と覚悟せられしは、千古の卓識と称すべし、其門人香川氏、これに継ぎ起り、師業お唱へ、自己の見お加へ、一家お為せり、又其に続ぎ、山脇君出給ひ、是等の事に心付れしにや、自ら観臓して、従来の旧説お改め、古書によりて、九臓の目お唱へ、古今の大誤お正し給へるとて、蔵志お著し給へども、是又確実の所に至らず、聊か実に就て基本お明にすべしといふの端お発せられしといふまでなり、又吉益氏抔は、近時の豪傑なれども、基とすべき医書なき故、才に傷寒論一書に精力お尽されしか共、是も錯簡の書にて、的実の所少く、取る所多からずとて、己が心に徹せし方論ばかりお取り、詰る所、脈などは用なきものなり、偏に腹候にありと、門人に教へられしよし、是已事お得ざるより出たるなるべし、愚老が家、世々医お以て我君に仕ふる身なれば、逃れても逃れ得ざる業なり、殊に不好道にもあらず、故に幼きより和漢の医書の端端お窺ひ見しに、生得不才にして、何書お読ても、是非お分たず、他人は能も解し得る事と、隻我不才お恥、歳月お経しまでなり、春秋甫二十二歳の時、同僚小杉玄適といへる男、京師の遊学より帰り来り、彼の地にて、初て古方家といふ事お唱ふるの徒出づ、其中に、山脇東洋先生抔、専ら此事お主張し、自ら刑屍お解て、観臓し、千古説所の臓象大に異なる事お知られたりと聞く、其頃、松原吉益抔いへる輩、相共に復古の業お興すのよし、其諸論説お聞得て、扠々羨しきことなり、疾医家にては、已に豪傑興りて、旌旗お関西に建たり、我其尾に附んは、口惜しく、幸に、瘍医の家に生れし身なれば、是業お以て、一家お起すべしと、勃然と志は立たれど、何お目当、何お力に事お謀るべき事お弁へず、徒に思慮お労するまでなりし、〈○中略〉かくありて後、初て真の医理は、遠西阿蘭にあることお知りたり、夫医術の本源は、人身平素の形体、内外の機会お精細に知り究るお以て、此道の大要となすと、かの国に立ればなり、凡そ病お療するに、此に精しからざれば、決て的中の治療はならざるの理なり、こゝに一二お挙て証す、少しく悪言に似たれ共、世上の医者の、病家へ招れ、初に脈お診し、浮沈遅数の指下に応ずるは知れども、其動静おなすものは、皮下に在て、何物なることお知らず、血共、気とも弁へず、隻脈といふものなりと覚へたるものと見ゆるなり、余りに浅猿しき事ならずや、〈○中略〉総て、脈と称するものは、血の通ふ管なり、其始お為すは、心の臓にて、其心に連なる大管より、血お注き出して、諸部へ周流すること間断なし、特り血の和不和お察するは、脈お切にして、其運動お候ふより著実なるはなし、東洞翁、胗脈おなすは、用なきものと教られしは、恐は疎漏の至りといふべき歟、〈○下略〉