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医宗仲景考
傷寒雑病論( ○○○○○) 、 金匱要略方論( ○○○○○○) の二書は、其原本一にして、今存る傷寒論は、傷寒雑病論の雑病篇お佚せるもの、金匱要略方論は、その傷寒篇お佚せる物なるが、古今億兆の医人、その方法に従事して、医薬の祖典と尊奉するに、其撰者お張機字仲景と伝へ来つれど、史籍にその伝なき事お誰も甚く遺憾に思へるに、此頃その人お考得たり、其はまづ晋書列伝なる、葛洪字稚川の伝に、洪猶好神仙導養之法、従祖玄、呉時学道得仙、号曰葛仙公、以其煉丹秘術授弟子鄭隠、洪就隠学、悉得其法焉、後以師事南海太守上党鮑玄、玄亦内学、逆占将来、見洪深重之、以女妻洪、洪伝玄業、兼綜練医術、凡所著撰皆精覈是非、而才章富澹雲々と見え、〈葛稚川の号お抱朴子と称へり、是おもて其著せる子書の、内篇外篇お抱朴子と名けたり、今〉〈この考中に、其子書と称するもの、即その抱朴子お雲へり、〉下に其著撰の目お挙たる中に、金匱薬方百巻、肘後要急方四巻とあり、〈○中略〉然るに雑応巻に戴覇とあるお、肘後方には仲景と有り、今此お考ふるに、雑応巻に華陀といふ姓名にて記せるお、肘後方序には、元化と雲ふ字お書たるに準へ思ふに、仲景といふも、戴覇と雲へる人の字とこそ聞えたれ、〈そは同じ稚川翁の文にして、かく相違ある事は、殊に深く心お止めて考ふべき事なり、華陀が字お元化と雲しことは、史伝に見えて、人あまねく知れり、〉また稚川翁の本伝に、金匱薬方とあるお、雑応巻また肘後方序に玉函方とあり、然れば稚川翁の撰べる百巻の方書は、かく二名お称し、また二名お合せて、 金匱玉函方( ○○○○○) とも称して、其金匱てふ名は、戴覇字仲景が方書の古名お用たると聞えたり、〈そは雑応巻に、戴覇が金匱と雲ひ、肘後序には、仲景金匱とあるにて論なし、〉斯て其方書は、全書今伝はらず、今存る 金匱玉函要略( ○○○○○○) といふ書は、其金匱玉函方お、晋末に出たる、王叔和が要略せる書なり、〈そは其書の始に、晋太医令王叔和集と有にて所知たり、王叔和は稚川翁より後の人なること、下に委しく論ふお見べし、〉然るに其要略せる本すら久しく湮没して、世に知る人無りしお、再び世に顕れたるは、趙宋の世になむ有ける、