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療治茶談

初学治療の才お長ぜんと思はヾ、必ず抄書の業お務べし、抄書とは、俗に雲ふぬきがきの事なり、其法、先一小冊子お作り、方彙の如く、各病名の部門お分ち定め、平日之お座右に置き、書見の毎度、要語奇方に遇はヾ、俗書抄薬等の嫌ひなく、少しも治療の助になるべき処は、悉く彼の冊子抄写すべし、仙気の方お得ば疝気門に、頭痛の要語にあはヾ頭痛門に書入るべし、而其出書は、勿論紙の丁数おも悉く書記すべし、譬へば、気謂口鼻中気息也、〈東医宝鑑雑病篇六十丁〉と記すの類是なり、是他日其全書お見たき時、捜索に便ぜんがためなり、其中要論の長文などは、よきほどに、上中下の文義お通ずるまでに、截割して記すべし、而冊子の仕立は、随分とていねいに装修すべし、装修厳なる時は、之お掌上にあげて自他の観美ともなり、之お高閣に束て、吾が心目お悦しめ、自其業も永く廃れず、作者の苦心も永く伝る等の益あればなり、此抄書の業、精事久しきに従て、冊子の巻数も増すなり、此冊子お取て、治療間暇の会には、必ず亦之お読べし、又治療の間だ難病奇証に臨み、若し此の冊子中に於て、思ひ中りたる奇方要論あらば、親しく之お其病人に就て試みて、効お奏する事三人以上に及ぶ時は、是真の経験といふ、此経験の事おば、又別に国字になりとも、文になりとも記し置、之お人にも伝へ、世にもひろめて、人の治療の助となすべし、是お真の済世と雲ふ、凡そ抄書の業お、三年が間だ、怠慢なく黽勉刻苦て務るときは、必ず名手良医の名誉お得ん事、更に疑なし、其故は総て日課の益お得る事、毎日十条づヽにしても、一年の益お数るに三千六百条、三年お通計すれば、一万八百条なり、一日の課業十条お度とせんには、甚だ軽き事にて、読書に耽る者は、朝食お終ふる間にもなるべき事なり、然れども人の性に利鈍あり、読書に好不好あり、其外飲食病災世応交義の為に、よりどころなく日お空くする事あり、彼此お平均て、其半お減じ、毎日の謂益五箇条づヽと見ても、三年の益する所お通計するに、五千四百条なり、すべて和歌にても、詩にても、三千首以上お記誦するときは、必ず其道に通達せらると雲ふ、何ぞひとり医事のみ然らざらんや、予〈○津田玄仙〉三十の頃より、此課業お思ひ立てより以来、四十八の今年まで、抄出お怠らず、巻数既に百巻にも及べり、其について、治療の手談も、一年に一年よりも大益お得る事、身に覚へ心に徹して知らるヽなり、