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古史伝〈十八〉
定其療病方、療字お、旧く袁佐牟と訓るも悪からねど、〈其は続紀四の詔に、御病欲治、また廿九の詔に、御病乎治賜〉〈比なども有ればなり、〉久須々琉と訓べし、旧訓お集めたる玉篇に、然る訓の有ればなり、〈此は己猶若き時に、下に注せる久須理の考お書て、療字お久須琉と訓まゝ欲き由お、信友に語りしかば、後に見出て、告遣せたるなり、〉然るは、まづ久須里と雲語は、いさ、かも古語の様お知たらむ者は、薬師の術、また薬の病お治むる事は、奇異なる故に、其物お久須理と雲ひ、其お以て病お療す人お、薬師と雲ならむとは、誰も思ひ寄ことながら、久須理は久須流てふ活語の体語になれるにて、本は占伝ることの古言なるお、皇国にて、薬お用ふること、占るより始れる故に、其お名に負せたるにて、古は久須理とも、久須泥とも雲けむと 所念( おぼ) ゆ、〈今も物お揩占ることお、久須理占るとも、許須理占るとも雲めり、また久須具流と雲語も、体に指おすり付る状など由有げなり、〉然るは、本草和名に、石斛者山精也、又石精也、〈出神仙服〓方〉和名須久奈比古乃久須禰、一名以久須利とあり、〈和名抄にもかく有りて、石斛石草之名也、図経雲、五月生苗、茎似竹節、七月開花、十月結実と雲へり、今は古きに依て、本草和名お引きつ、〉これ久須禰とも、久須利とも雲る証なり、須久奈比古乃久須禰とは、少毘古那神の薬と雲ことにて、諸薬この神の御霊に頼ざるは有まじき中に、此薬は、殊に用給へる故に、当昔よりかく名お負るならむ、以波久須理と雲は、此草はも、石斛、山精、石精など、漢人も名けたる如く、岩に著て生る物なれば、久須理と雲は、占る義なる故に、かく名お負るか、岩に生て久須理に用ふる物なる故にいへるか、何れに見ても、久須理、久須禰、同言とは通えたり、