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皇国医事沿革小史
後編第六期
玄真、〈○宇多川〉又之お憂ひ、 和蘭薬鏡( ○○○○) お著はし、又 遠西医方名物考( ○○○○○○○) お撰す、洋医家益々其沢お蒙る、玄真亦子なし、美濃の人江沢養樹の子某お養て嗣と為す、即ち榕庵〈名は榕〉なり、榕庵少ふして物産学お好む、後ち 植学啓源( ○○○○) の著あり、是れ我邦泰西の植物学ある初にして、其著天保四年〈紀元二千四百九十三年〉に係る、又 百網譜( ○○○) お著す、門人伊藤圭介 泰西本草名疏( ○○○○○○) お作る、先是天明の頃、〈紀元二千四百五十年代〉旧訳官石井恒右衛門、白河侯の名に由り、どヽにゆーす植物学飜訳の挙あり、惜ひ哉其業半にして死せり、