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平賀鳩渓実記

平賀源内初て居所お求る事并医師児島円達が事、
源内は標札お出し、儒医の書籍ども会読講釈の看板お出し、其上本草会お催したり、其頃は、神田佐久間町の医学館の初りし時分ゆへ、医学繁昌の時也、援に中橋辺に、児島円達といへる、本道医師あり、源内が、本草会お聞て珍敷会也、今まで所々本草の会有といへども、会読等にて書籍の沙汰計也、然るに此度平賀源内といへる者、 薬草会( ○○○) 取立しは幸なる哉、我等も年来薬草に苦んだり、出席して器量の程お試んと、同志の医師十五六輩、各異草或は鳥獣の異るお持参して、案内し入来れば、源内は上席に客座お設け、門下の諸生左右に居并び、和漢山海の異物お集め、衆議判おいたしけり、円達は応対終つて、薬物お取出し衆議判に及ぶ所、大勢にて名お付られぬ異物は、いづれも、源内は委しく知り、和漢の名目、明らかに付て論定り、また源内が所持の物は、大勢あつまるといへども、一つとして知るものなし、数日の会、何にても、右の如くなりければ、円達はじめ、江戸中に、本草家と称する医師、源内に屈服せざるは一人もなく、是よりして、源内が名は高く成て、儒医ともに信仰せり、円達は、宿所へ帰り、成程源内は博物なり、中々及べきにあらずと雲て、社中の者へも、兎角本草においては、平賀程なる者はなしと感心して、夫より心易く出会せり、源内は、此本草会お催せし故に、高名お取り、弟子抔も多くなりて、不自由なる事もなく、中華蛮国の名産共に集れり、諸大名へも出入すれば、召抱べき沙汰あれど、仕官の存知寄なくして、御直参にも成たき心と、人々評判しける、夫よりして、薬種屋書物屋共、源内に近付て、和漢の薬種製法など、或は書籍新渡の直段付、日々寸暇なく、其間には、会読講釈諸家へ出入ける故に、殊の外手広になり、近国は扠置、中華までも名お揚しは、先本草が初めなりしと也、住居抔も手狭になれば、神田白壁町へ転居して、鳩渓先生と号して、儒書医書の釈義に光陰お送りける、