[p.1153][p.1154]
大猶院殿御実紀
三十一
寛永十三年五月二十一日、仙台中納言政宗卿のもとによぎらせらる、これ黄門兼日大病によてなり、政宗卿も世にありがたく、かたじけなきことゝかしこみ、身のくるしさおもわすれ、肩衣袴お著し右の手お、土井大炊頭利勝、左の手お、柳生但馬守宗矩にひかれ、酒井讃岐守忠勝は、後ろより腰お抱きて、御前にまいりければ、側近く立よらせ給ひて、中納言よ、病気聞しよりは、一段よくて満足せり、隻今は、養生第一の時分ぞ、努々、油断すべからずと仰あり、さて家司等めせ、小十はなきかとの御諚により、片倉小十郎、石母田大膳、中島監物、佐々若狭はるかの次よりすゝみ出て、拝し奉れば、黄門の病、今こそ肝要なれ、女等看侍怠るべからずとの玉音おたまはり、各拝謝して退く、その後は、政宗卿にむかはせ給ひ、しばし御密旨あり、政宗卿もくるしげなる息の下にて、何ごとおか聞え上しかど、外に聞伝ふるものなし、さて返々自愛怠るまじ、頓て快復すべければ、その時は、城にまねき、目出度一ふくまいらせなん、何にもせよ用あらば、遠慮なく承はるべしと仰ありて、其座おたゝせ給ひ、はるか縁おへだて給ひて、越前々々とめしければ、越前守忠宗御前にかしこまる、時に中納言の病体、聞しよりも、見て肝お消したり、中納言にはよき様に言て力お添けれど、実はかゝる病体にて、とても本復の頼みあるべからず、女が心中察し入たり、しかし中納言卒せられたりとも、家光かくてあれば、こゝろ安かるべしと宣せたまひて、還御なれば、忠宗感涙お流して拝送し、政宗は合掌して声さへたてず、ふしおがみつるとぞ、