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陰徳太平記
四十八
羽倉元陰戦死之事
三月〈○元亀二年〉十八日、已に打立んとする折しも、伊織助俄に 疝気( ○○) 発して、前後不覚に譫語のみ也ければ、夜討おや延引すると雲けれ共、かく迄催したる事、今更非可遅引とて、羽倉孫兵衛元陰お物頭として、目加田采女允、同弾右衛門、高尾右馬允等五百余人、小船十余艘に取乗、米子の町へ打入けり、