[p.1211][p.1212]
東門随筆
一脚気の病は、唐王潮が外台秘要に精く見へたり、二十五六年已前までは、此書も甚希に医人も不心付、故に脚気病お知たる者なし、予〈○山脇東門〉が父此書お翻刻して、脚気と雲ことお説初しより、世上に脚気あることお知たり、故に世俗は新病の出来たると心得たる者多し、医人も其理療に疎かりしが、年お経たるゆへ、今時は少しは療法も覚へたれども、はか〴〵しくもなし、但此病俗間に、膝脚気、湿脚気など雲とは、大に相違したり、されど膝脚気などは脚気の一証にて、甚軽き時あることにて、筋攣よりおこれることなり、全体脚気卒慢の二腫あり、卒は十に九は救得がたし、此病初夏の比より初冬の頃まで有ものにて、其余はなし、外台秘要蘇長史論曰、凡脚気病多以春末夏初発動、得之皆因熱蒸、情地憂瞶、春発如軽、夏発更重、入秋小軽、至冬自歇、大約如此、亦此時有異於此候者と雲へり、此格論なり、医此病に疎きゆへ、晩冬初春にも衝心の病にて、浮腫さへあれば脚気とおぼへ、療することなり、不穿鑿なることなり、金匱要略脚気冲心と雲に、礬石散お湯中に投じ浸脚の法あり、其他外台などにも、杉木湯にて将脚の方あり、甚快きものなり、千金方にも、脚気論有て竹瀝お多用ひたり、されど脚気は外台にて尽したり、其他古書にも、左伝成公六年、献子曰、民愁則墊隘、於是乎有沈溺重膇之疾、と雲ることあり、此土薄水浅より出たる病なりと、此脚気に類したる者ならんか、又呂子重己篇に、室大則多陰、室高則多陽、多陰則蹶、多陽則痿比蹶、と雲たるも亦脚気ならん、又源氏物語、枕草子などに、脚気のぼると雲、又うつぼ物語かくびやふなど雲たるも皆此病なり、此等の言にて見れば、本邦にも古人は明弁して、療することも覚へ居たらんに、世の変遷につれ、かやうのことも廃したると見へたり、