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東門随筆
湿毒はもと本朝にはなかりしが、国初〈○徳川幕府之初〉の比、華人長崎に来りし者、其毒お妓女に伝へたるが、今世上に広りたるよし、故に初は此病お 唐瘡( ○○) と雲たると也、されど古き和書に、黴毒のこと所々に見へたり、昔はともあれ、当時は此三都は勿論、其外都会輻湊の地別して多く、卑賤の者に取分多し、是全く賤妓に交るゆへ也、賤妓は別して数人に交り、穢気除く間なきゆへなり、右様のことよりして児に毒お遺す故、腹裏に塊癖お生じ、種々病お生ず、小児の下疳瘡の遺毒といへど、大人の袋疳瘡の形状に異らず、小児故、其毒根浅く、酷性の薬お得ずして理するなり、又痔漏鼠瘻など、所によりて名は異なれども、其形状相同じ、名さへ異なれば、病因別の様に心得れども、理療の生意相同じ、素の違にて薬の向方軽重ある計なり、総て此黴毒お湿毒と雲へども、湿気外感の因にてはなし、人必青楼妓館に登れば、此毒お感受するにてもなし、近世とある上もなき高貴の御方、便毒ありたることあり、秘することゆへ顕に雲がたし、是にて知べし、畢竟妓などは数十百人に交接する者ゆへ、其身淤毒少くても、他人の毒お感受し、他人も亦其者に交接して其毒お受るなり、実に妓は黴毒の府と雲べし、扠平生花柳に耽たれども、自分に毒なければ感受せぬ人多、又感ずること有ても、其毒感触したる計にて、内より発動する者なきゆへ其毒浅し、自分に所持したらんは、うてはなる道理にて、始て妓楼に登りて始て黴毒お病む人多し、是にて知べし、但し世に湿毒と雲も、其因縁なきにてもなし、湿の地にすむ人は黴毒多く、高燥の地は少し、凡高燥は舟の便利なく、下湿は其便あるゆへ、自然と都おなすものなり、都会は必妓楼有て、人十に八九は折枝者多きゆへ、兎角此病多し、其症或は痔、脱肛、下疳、淋疾、便毒、〓瘡、陰癬、小瘡、囊癰、骨疼、此等の病は皆下部にて湿に因すると雲へども、元来下湿の気が、人の肌肉に染んで、久舎り病しむるに非ず、持料の淤毒あるが、下湿の地に住する故、其気に感じて内毒の発動するなり、外来のものと見るゆへ、理療も迂遠になりて利なきなり、余〈○山脇東門〉近年浪華の豪富鴻池氏が、黴毒お病たるとき診視したるが、此子元来京師の産にて、彼家へ養子となれり、浪華の西に鴻池新田と雲あり、此子其所に住たりしに、一二年して、下疳楊梅瘡病み咽喉腐煉し、後には鼻梁陥りたり、元来其地新に築きたる地ゆへ、土浅水近して甚湿気深く、此所に住者十に七八は、一二年お過ずして黴毒発するなり、其形状異なれども、多く前段に雲下部の病なり、外気の因ならば一般にも病べけれど、其中にも至て壮実なる者には、間々病ぬ者あり、是内毒の有無によればなり、是お以て考れば、湿なりと思へること、余義なきことなれども、貴尊の人生平高林厚辱に坐し、寒温意に通じ、憂愁思慮もなき人の、湿気お感ずべき謂なし、江戸深川は海辺にて甚下湿の地、此所には甚小瘡多しと也、因て深川瘡とも称するよし、是等にても知たることなり、