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大鏡
七太政大臣道長
其とし〈〇長徳元年〉の祭のまへより、よの中きはめてさはがしきに、またのとし、いとヾいみじくなりたりしぞかし、まづは大臣公卿おほくうせ給ひしに、まして四位五位のほどは、かずやはしりし、まづそのとしうせ給へる殿ばらの御かず、閑院大納言殿、三月廿八日、中関白殿、四月六日出家し給ひて、十日うせ給ひぬ、それはよのえにはおはしまさず、たヾおなじおりの、さしあはせたりし事なり、小一条左大将済時卿は、四月廿三日うせ給ふ、六条左大臣殿重信、粟田右大臣殿道兼、桃園源中納言保光卿、この三人は、五月八日一度にうせ給ふ、山井大納言殿はみちよりと申し、六月十一日ぞかし、御年二十五にて又ありしかし、あがりてのよにもかく大臣公卿七八人、二三月のうちにかきはらひうせ給ふは、けうなりしわざなり、