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塩尻
四十二
正徳四年甲午三月狸蒙して日月光なかりしが、四五月の比、肥前長崎港疫疾大に流行し、比屋病床に臥し死に至る者七千余に及びし、〈六月官に請て報金お賜はりし〉九州四国中国の方も又疫気一時に行れ、是に死する者甚多しと聞ゆ、六七月、難波京師に及び、染疫の家に苦しみ愁ふ、泉南猶甚しく、堺の商家死亡数千人なりし、京にて組お定め人形お作り、夜に入数十人金鼓にて疫お送る事喧びすしく、前代未聞の姿なりし、関東も同じ様にて、我府下中元の前後病に臥し、医師薬匙おさしおく時なかりし、され共五三日にてやがて本復し、死亡する者は伝へ侍らず、勢江濃三の諸州東都も同じ疫に染ざるはなし、古へにいふ 三日疫病( ○○○○) とはかヽる類にや、