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閑窻瑣談

天行病
何物語とやらいふ書〈正徳享保年間の実録にて、其時にしるせし写本なり、〉に、正徳六年の夏熱お煩ふ病人多く、一け月の中に、江武の町々にて死する者八万余人に及び、棺おこしらゆる家にても間に合ず、酒の空樽お求めて亡骸お寺院へ葬るに、墓地に埋むる所なければ、宗体に拘らず火葬ならでは不納といふ、依之荼毘所に送り火葬せんとすれば、棺桶の数限りもなく積かさねて、十日二十日の中には火おかける事ならず、其到来の順々に荼毘すれば、日数おはるかに経といふ、こヽにおいて貧しき者の亡骸は如何ともすべきやうなく、町所の長たる人々も世話行届かで、公庁へ訴へまうせしかば、夫々の御慈悲お賜り、寺院に仰せつけられて、葬がたき亡骸おば、回向の後、菰に包みて舟に乗せ、こと〴〵く品川沖へ流し、水葬になさせられしといふ、按ずるに、正徳六年は六月二十二日に改元あつて享保元年となれり、彼明暦三年の火災に、十万八千人の焼は、当時猶言伝へて怖るれど、享保元年の天行病に、数万人の一時に死亡せしお、後に伝へて言ものなきは、火難と違ひて、書留しもの、鮮き故なるべし、