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時還読我書

時疫の流行は其理お推知すべからざることあり、完政七年の三月初旬、大君小金原に狩し玉ひて、四五日の後より感冒行れたり、其患者の衣袂に必ず猪鹿などの獣毛あり、少きは七八根多きは掌に満るに至る、故に時人名けて御猪狩風と雲しとぞ、実は何の故なることお審にせざるなり、又閑田次筆に、享辛酉〈○元年〉の歳極月より壬戌〈○二年〉の正月に及び、疫邪流行す、荷蘭人より伝へしとも、去年漂流せしあんぽんなどより染しとも雲へり、京師は二月廿日頃より三月廿日頃まぢ行はれ闔戸みな病む微疫なり、其病人袂の中に必ず薄赤き毛あり、或は一条或はに三条づヽなり、近江播磨の国々皆しかり、怪きことなり、蛮人より伝へし故に、かヽる毛も生ぜしやと雲へり、意ふにこれと同証ならんか、彼の所謂羊毛瘟は身体へ羊毛の如きものヽ生ずるにて自ら別病なり、