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老牛余喘
初編上
疫神社
此御社、古き村には必立給へり、然れども今は大かたいづこも小き祠にて、いつの頃より祭りしとも尋ねおもふ人なし、こはふるき御社なり、類聚国史に、宝亀二年令天下諸国祭疫神とみゆ、此御社には素戔嗚尊お祭るといひ伝へたり、これ古き伝へなり〈然れども素戔嗚尊とのみこヽろうべからず、下にいへるおむかへ見てしるべし〉、此尊岩戸の前よりやらはれて、降り給ひし時、宿お道のべの神に乞給へども、やどし奉る家なくて、雨風いたく吹降といへども、暫くもやすらふ事お得ずして 辛苦艱難( たしなみ) つヽ降り給へり、此時に備後国に巨且といひて〈巨且長者と語伝へたり〉富る者あり、宿お乞給へども、かしまいらせず、其弟なる蘇民は〈蘇民将来ど語伝へたり〉貧しかれど、いたはり奉りてやどしければ、後に巨且が家に疫神入てあらび、そみが家には入ざりし事など、備後風土記にみゆ、〈此風土記の事は、寓言なりと雲人もあれどしからず、此書全くは伝はらで、引たる書によりて、後の人の竄入もみゆれど、事は実にて、今に国人旧跡お伝へて、素戔嗚尊お祭れる御社も近く立給へれば、しふべからず、委しくは備後略記前篇にしるせり〉、しかれば此尊、根の国に降り給ふとある根の国は、山陽山陰両道おいふと、新居氏〈新居白石先生といふ人〉のいへるがごとし、古は山おねともいへり、富士のね、甲斐がねなどいと多し、されば此尊、備後お通りて、出雲へ降著給へり、くはしき事は備後略記の品治郡の条にいへり、さて此尊は疫おはらひ退け給ふ故、疫神社に祭るといふは、あらめなる説なり、書にも直ちに疫神また行疫神などヽあれば、疫おなす神おいふなり、こは素戔嗚尊のわかくおはせし時、あらび給ひし名残の霊お疫神と申なり、〈しからばかの蘇民が家にて、疫神お防ぎ払ひ給ひしは、いかにおのれ尊の霊おはらひ給ふ事いぶかしと、いふ人あるべけれど、其時ははや正しき神にておはせば同じ尊の荒霊と別神になり給へればあしき神お払ひ退け給ひしなり、こヽは大名貴命の、おのれ命の幸魂奇魂と問答し給へりしお見て知べし、尊き神の御上には、しかあることおほきぞかし〉、是お祭るは、御社に鎮まりまして、あらび給はざらむ事お祈りて、みあへ奉るなり、古学する人は、世間の曲事はみな、枉津日命のみしわざにて、疫神と申も此神なりといへども、かたよりなる説なり、古より素戔嗚尊お申といへるはあらめなる事もあれど中々なほき伝なりかし、かくいへば、しからば素戔嗚尊は、邪神なるかといふ人も有べけれど、そはおだやかに考ざるなり、今の世間にも邪神にはあらで、おり〳〵にはあらびます事あるにあらずや、そは邪神の見入にて、正しき神のみしわざにあらずといはむか、そも邪神見入て来らば、いづこにも正しき神おはすなれば、など邪神おばほせぎ給はぬにや、されば神の御うへの事は、かたづめてはいはれぬものなり、たヾ常には尊みて幸お祈り、あらび給ふ時はかしこみてしづまり給はむ事お祈るべきなり、これ世の中にもしかする事にて、すなはちなほき御国のならひなりとしるべし、