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燕石雑志
三上
鬼神余論
世に疫鬼痘鬼といふものあり、疫鬼は俗にいふ疫病神、痘鬼は俗にいふ疱瘡神なり、和名抄に、瘧鬼、邪鬼、窮鬼等お出せり、窮鬼の人の家にあるお耗といふ、世俗貧乏神といふは是なり、和名抄に雲、瘧鬼、蔡邕独断雲、昔顓頊有三子、亡去而為疫鬼、其一者居江水、是為瘧鬼、〈和各衣也美乃加美〉或〈於爾〉邪鬼、日本紀雲、邪鬼〈和名安之岐毛乃〉窮鬼、遊仙窟雲、窮鬼師説、〈伊岐須太万〉といへり、みなこれ大陽の毒にて、一時の気運に乗じて流行す、顓頊の子亡去て疫鬼となるといふものは誕妄のみ、疫癘は冬より発りて春夏の間最も盛なり、その寒に傷らるヽもの、春夏大陽の毒に触て誘引はる故に、和漢除夜に儺してもて、疫鬼お駆るといふ、我俗これお 疫おとし( ○○○○) といふ、後遂に災厄の厄とするものは誤れり、唐山には立春の日、土牛お造りて農事おすヽむ、天朝亦これに効ふて、大寒の日夜半に、陰陽寮土牛童子の像お造りて門戸に立、延喜式に、土偶人十二枚〈高各二尺〉土牛十二頭と見えたり、その数一年十二け月お表する歟、土牛は青黄赤白黒なり、春夏秋冬東西南北の色に随ひてこれお立るとなり、亦水鏡文武紀に、慶雲二年とまうしヽに、世の中こヽちおこりてわづらふ人おほかりしかば、追儺といふ事ははじまりしなりと見え、亦慶雲二年、天下疫癘盛にして、人民多く失しかば、土牛おつくり追儺といふ事始れりと、公事根元にも記されたり、吉田の疫塚これその余波歟、毎歳節分の夜、吉田神祇官において、庭上に塚お築きこれお疫塚といへり、その塚、正月十九日に至りて解去るお清祓といふ、亦この日、山城国八幡の社頭に疫神お祭る、亦この月十六日に、伊勢国度会郡山田の郷に獅子頭の神事あり、亦三月十日、高尾の法華会これお安良比花といふ、やすらひ花と鼓うつなりと寂蓮の詠るは是なり、〈この詠草、紫野今宮の社司の家にあり〉、みな是疫神神お駆の義にして、なごしの祓に至て止、なごしは夏越なり、七月に至て陽気衰ふ故に、秋はこれお禳はず、王充が、鬼は大陽の毒なりといへりしはこの事ならん、かヽれば疫神も又形なし、但一時の気運に随て流行するとき、その形在がごとくも、陽衰ふるに至りて、消然として跡なし、譬ば酒食の腐煉するとき、忽然として蠅の聚るに似たり、人その酒飯おすて去れば、蠅も又随て跡なきが如し、よりて小蠅鳴悪神といへり、しかるに病劇しき時、人往々疫鬼お見ることありといふ、その説ところの形状一定せず、みなこれ陽毒のなす所なり、故いかにとなれば、これお山気の蒸て雲霧お起すに譬ふべし、山中の人その雲の起るお見れば朦朧たり、山下の人これお見れば別に奇峯お添るが如し、瘟疫の人に逼る熱邪内に蒸して、その毒外に発す、よりて患者その疫鬼お見る、これ山下にして雲気お瞻望し、是お奇峯とするが如し、人その毒に触るヽときは亦随て患む、故に聖王皇天郊土お祀りて、陰陽その時にたがはざらんことお禱り、世俗春夏に祓禊してもて疫鬼お駆る、駆といへども尽ることなし、凡天下に疫癘の流行せし、漢にいたりてます〳〵盛なり、こヽおもて天仲景氏お生じて、永く疫鬼お駆しむ、