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兎園小説
五集
安永以来の はやり風( ○○○○)
今〓は秋のころに至りて、感冒必流行せんか、細人小児おしなべて 寝々転々( ねん〳〵ころ〳〵) と謡ふこと、是病臥の兆ならんといへり、果して八九月の頃に至りて、風邪感冒流行して、良賤病臥せざるはなく、軽きは両三日にしておこたるもありしかど、重さはその症、疫熱に変じたる、三四十日に至るもあり、或は庸医に愆られて、よみぢ赴くものもありけり、このときのえせ狂歌に、
はやり風無常の風もまじりけりねん〳〵ころり用心おせよ
かくて病むと、やむ程に、関の八州いへばさらなり、京摂の間まで、脱る、ものなかりしとそ、童謡はいにしへより和漢の歴史に載せられて、応験あらずといふもの希なり、〈○中略〉
予が東西おおぼえしころより、大約五十年このかた、時々の感冒に世俗の名お負はせしもの少からず、まづ安永の中葉にはやりし風邪お、 お駒風( ○○○) と名づけたり、こは城木屋お駒とかいふ淫婦の事お旨として、作り設けたる浄瑠璃のいたく行はれたればなり、又安永の末にはやりし風邪お、 お世話風( ○○○○) と名づけたり、こは大きにお世話、茶でもあがれといふ戯語の流行せしによりてなり、又天明中にはやりし風邪お、 谷風( ○○) と名づけたり、こは谷風梶之助は、当時無双の 最手( ほて) なりければ、これに勝るものあること希なり、谷風嘗て傲言して、とてもかくても土俵の上にて、われお倒さんことは難かり、わが臥たるお見まくほりせば、風おひきたる時に来て見よかしといひしとぞ、この言世上に伝へ聞きて、人々話柄としたる折、件の風邪お谷風がいちはやくひき初めしとて、遂に其名お負せしなり、さればこの時四方山人、送風神狂詩あり、録してもてこヽに証とす、
引道( ひくならく) 此風号谷風、関々痰咳響西東、悪寒発熱人無色、煎様如常薮有功、一片生姜和酒飲、半丁豆腐入湯空、送君四里四方外、千寿品川問屋中、
又文化元年にはやりし風邪お お七風( ○○○) と名づけたり、こは八百屋お七といふえせ小うたの流行せしによりてなり、又文化五年の秋はやりし風邪お、 ねんころ風( ○○○○○) と名づけたり、そのよしは、上にいへるが如し、又文政四年の春二月の比、いたく流行せし風邪お、 だんほう風( ○○○○○) と名づけたり、こはこのときのはやり小うたに、だんほうさんや〳〵と謡ひしことのあればなり、かくて去年甲申の春二三月の頃、はやりし風邪お 薩摩風( ○○○) と名づけたり、こは西国よりはやり初めて、こヽまでうつり来つればならん、此うち谷風、お七風、ねんころ風、だんほう風は、はげしかりき、家々毎に五人三人枕おならべて、うち臥さぬはなかりけり、西は京摂に至り、東は安房上総、西南は、甲斐伊豆の海辺、北は信濃越後まで、なべて脱るヽものなかりしよし、その折々に友人の郵書にも聞えたり、だんほう風のはやりしとき、何ものかよみたりけん、
みやこから乗せてくるまのだんほ風ひくものもありおすものもあり
いとおかしきや、例の人の癖なるべし、かヽれば此風は京よりはやり来つるにこそ、この他、完政享和中にも有りけんお、さる名お負せざりける歟、いふがひもなく忘れたり、抑、この一条は曩に北峯子のしるしつけたる、風の神の図説の後につけてもいはまほしかるまヽに、伊豆の千わきのわけなし言もて、科戸の風の神やらひしつ、鋭鎌、八重鎌、刈りはらふごと、 禿( ちび) たが筆お走らせしみそぎやのやく体もなき、隻是嗚呼のすさみになん、
○按ずるに、古く疫病と称するものヽ中には、流行感冒も混じたり、又次条の咳病、傷風、熱気など称するものも、多くは感冒お雲へるなり、