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橘黄年譜

天保七年夏四月より日に雨降り、或は天陰晴れず、五月に至り霖雨止時なし、菜蔬生ぜず、七月十八日及八月朔日大風雨屋宇お傷り、草木お倒し、山川涌溢して民の愁苦少なからず、其秋遂に不登にて、五穀及菜蔬価貴く、翌八年丁酉に至り、米価沸騰百銭お以、米二合五勺お得、銀拾五銭お以、酒一升お沽に至、因て道路餓符多し、幕府佐久間街に貧院お設け、普く窮民お救ふ、其員凡弐万余人と雲、尚県令三名に命じ、品川、板橋、千住、内藤新宿四駅に於て、貧民お救育せしむ、翌春三月より 貧民熱病行はれ( ○○○○○○○) 、四方に伝播す、其人壌証多く、胃実に属する者絶て少也、世医以穀食不足の徴とす、其時病人大抵大小柴胡より導赤各半、升陽散火、参胡芍薬、参胡参白等の如き錯雑の症に至り、其甚だ脱症になりては、増損理中〈結胸の脱症に用ゆ〉真武、茯苓、四逆、附子、粳米〈噦逆甚者ち沿す〉の類にて救治お得たり、又参附お与ふる後、余熱煩渇お生じ、竹葉石羔湯にて全治したるもの間有之、
○按ずるに、流行熱病の事は疫病条にもあり、