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倭訓栞
前編三十三毛
もがさ
痘おいふ、続日本紀に、豌豆瘡俗曰裳瘡と見えたり、今の疱瘡也と見ゆ、垸豆瘡も同じ、一村流行する、裳お曳下るが如し、よて名くるよし、大同類聚方に見えぬ、一説に痘家古へ戸お閉て出ず、父母の喪に居が如し、よてもがさといふともいへり、又いもがさの略、今もいもと称せり、忌の義、痘家もはら忌事多きおもてなり、東国にてもつかひともいへり、按ずるに、西土は巍朝に発り、我邦は神亀年中に始る、すべて其躬に生ずるの病に非ず、邪崇に抵触し穢気に侵され、此病おうくるなり、西土にも痘翁痘使の名あり、疱神は疫鬼の如し、類聚国史にも、仁寿二年皰瘡流行人民疫死と見えたり、出羽の方言に、痘お 疫( やく/○) といひ疹お 小疫( こやく/○○) ともいふよし、無神の論お著すものあり、無稽といふべし、主上御皰瘡の時は、山王の猿も必ず痘お病は一奇事也、後光明院崩御の時、坂本の猿かろき皰瘡したり、新帝御医薬の時、山王の猿もがさ煩ひける、被なんど調せさせて賜ふ、ほどなく猿は死けり、帝は復本あらせたまふ、古書に此事見えず、長崎人は出痘の時お 赤うで( ○○○) といひ、貫膿の時お 白うで( ○○○) といふ、痘の乾くお 畠毛物( ○○○) といひ、やヽ湿るお 田津物( ○○○) といふも、芋といふに据也、琉球山南の人は痘疹お患へず、我邦八丈島の如し、