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武江年表
十一
文久二年六月、炎旱数旬に及べり、夏の半より 麻疹( あかもがさ/はしか) 世に行れ、七月の半に至りては弥蔓延し、良賤男女、この病痾に罹らざる家なし、此病夙齢の輩に多く、〈天保七年の麻疹に、かヽらざる輩なり、〉強年の人には希なり、凡男は軽く女は重し、それが中に、妊娠にして命お全ふせるもの甚少し、産後もこれに亜ぐ、後に聞けば二月の頃、西洋の舶 崎陽( ながさき) に泊してこの病お伝へ、次第に京大坂に弘り、三四月の頃より行れける由、江戸に肇りしは、小石川某寺の所化何がし二人、中国より江戸に来りし旅中に煩ひて、四月の頃、病中寺内へ入、闔山の所化に伝染しけるが、夫より五月の末に至り、少しく行れ、六月の末よりは次第に熾にして、衆庶枕お並べて臥したり、文政天保の度にかはり、こたびは殊に劇して、良医も猥に薬餌お施す事あたはず、或は吐し、咳嗽お生じ、手足厥冷に及ぶ、烏犀角は内攻お防ぐの薬なれど、用ふる事度に過れば、逆上して正気お失ふに至るとぞ、固より熱気甚しく、狂お発して水お飲んとしては駈出し、河溝へ身お投じ、亦は井の中へ入て死るもありし、医師は巧拙おいはずして、東西に奔走し、薬舗は薬種お択ばずして、售ふに徨なく、高価お貧れるも多かるべし、しかるに医生も薬舗も、又続て同病に罹れるも鮮からず、製薬店招牌おかヽげて售ふもあれど、症分によりては応験等しからざるもあるべし、七月より別て盛にもて、命お失ふ者幾千人なりや量るべからず、三昧の寺院去る午年、暴瀉病洗行の時に倍して、 公験( きつて/○○) お以( /○○) て日お約し、荼毘の烟とはなしぬ、故に寺院は葬式お行ふにいとまなく、日本橋上には一日棺の渡る事、弐百に曁る日もありしとぞ、又七月の半よりは、暴瀉の病にまさりし急症やむ者多くこれあり、こは老少おいはず即時兆し、吐瀉甚しく、片時の間に取詰て、救薬すべからず、死後総身赤くなるもの多し、その中には麻疹の後、食養生解りて再感せるもありしとか、又鶴乱の類もありと聞り、〈麻疹鳥獣にも逮して、牛馬鶏犬の弊たるもあり〉、銭湯風呂屋 箟頭鋪( かもゆひどこ) 更に客なし、花街の娼妓各煩ひて、来客お迎へざる家多かりし、七月九日十日浅草寺千日詣参る人少く、十六日閻魔参又同じ、少年の 走百病( やぶいり) これなきが故なり、両国橋畔の夜舗、七月半は更に灯燭お点する事なく、納凉避暑の輩かつてなし、相州大山に登るもの又希にして、道中より煩ひて帰りたるもありけり、八月の半より町々木戸に 斎( いも) 竹お立、軒に奉灯の挑灯お釣り、鎮守神輿獅子頭おわたし、神楽所おしつちへて神おいさめ、この禍お攘ふといへり、後には次第に長じて、大なる 車楽( だし) お曳渡し、 伎踊遅物( おどりねりもの) お催して街頭おわたす、此風俗一般になり、又諸所の神社にも臨時の祭執行せしもこれあり、