[p.1411][p.1412]
麻疹流行記
ことし文久二年壬戌、夏のはじめより、京都、大坂、麻疹流行せしが、漸尾張に伝播し、六月七月に至て、病勢熾に、府下病ざる者少し、今年の麻疹、熱病疫癘のごとく、軽き者も病苦は甚しといふ、江戸其外諸国一般に伝播して、皆同じ症也とぞ、八月末に至て、漸く歇む、夏秋の際前後きく所お雑記する事右のごとし、
六月の末より七月に至て、家々の病人火しく、医者は昼夜お分たず、四方に奔走し〈はやる医者は夜中眠るひま〉〈なしと雲〉薬舗に薬お買ふ者、昼夜店に満つ、〈犀角、てりあか、葛根湯の薬剤等、おびたヾしく売れたりといふ、〉官より熱田の祠人に嘱して、神前に祈禱お行ひ、府下の市人に、神符お頒ち賜ひ、各街に祭らしめらる、各街七日の間神湯お献じ、夜は篝火お焼き、灯お、張り、竹枝に灯おかけて、軒にたて、夜景煉々として、遠望星のごとし、然れども病者多きゆへ、この美観お出て観る者なしと雲、
小児はすべて軽し、十六七歳よう三十歳前後の者、病苦殊に甚しく、死亡の者も多し、四十己上は又甚軽し、病ざる者も間あり、然れども大老の者に病む者もたま〳〵ありと雲、
婦人懐妊中にて麻疹にかヽりたるは、多くは重症なり、子は多くは流産す、死亡の者も多し、或は子焼たるごとくになりて生れ、母は命助るもあり、子生れ恙なくして母死するもあり〈産後の麻疹も、重症なりとぞ、〉