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陰徳太平記
三十三
石州川上之松山落城事
援に芸州佐藤の住人、福島三郎左衛門光貞とて、数箇度の戦功に勇名お顕したる兵あり、日和の城攻られし時、赤痢お煩て死生お不分ける故、催促に不応けり、然るお元就朝臣、如何思給ひけん、福島殿は煩よなと、戯言の様に宣つるお聞伝へて、諸人口号に、福島殿は煩よなと雲ければ、福島、扠は吾虚病お作て軍の勝負お窺也とぞ思給らん、二心有は億病にも勝りて、義人志士の所恥也、一人の手お以て万人の口お掩難ければ、此群疑晴すべき様もなし、所詮病平愈せば、石州へ越、戦死せんと思究めて在しが、今朝馳来り物具いつよりも花やかによろひなして、元就朝臣の面前へ出仕せしかば、元就、病気は本復しつるやと宣けるに、福島頓首して涙お波乱々々と流して退出したりしお覧給て、福島は今日討死すべき体に見えたり、可惜兵おと宣けるが、果然として三吉が備より六七町先立て切岸に馳上り、芸州、佐藤の住人、福島三郎左衛門光貞生年四十三、今日の先陣也とぞ名乗たる、