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暴瀉須知
古呂利考
按に古呂利は、万病回春、霍乱の一名虎狼病と雲より出たりと雲、又西洋所謂虎列剌の転語と雲説あれども、皆附会信ずるに足らず、古呂利は、本皇国の俗語にて、卒倒の義お雲て、古より早く病に称し来ることなり、元正間記雲、元禄十二年の頃、江戸にて古呂利と雲病はやり、今月流行す、早く南天の実と梅干お煎じて呑ば、其病お受けず、左もなければ、そろりと煩ひて、古呂利と死すとて、江戸中、南天の実と梅干お煎じて飲しと雲、此事申出せしは、神田須田町の八百屋総左衛門と雲者、去年大坂より、多く梅干お仕込置し処、今年上方の梅干きれて一向に下らず、これに依て、我梅干お高直にして売らんとて、かヽることお言出しけるに、遂に官に聞えて八丈島へ流されしと雲、又古老の話に、昔古呂利にて、数万人死して葬ること能はず、官因て水葬の令お下すと雲、閑窻瑣譚雲、正徳享保の年間の実録お記せし書に、正徳六年の夏、熱お煩ふ病人多く、一け月の中に、江戸町々にて死する者八万余人に及び、棺おこしらへる家にても間に合はず、酒の空樽お求て、亡骸お寺院へ葬する、墓地埋む所なければ、宗体に拘らず、火葬ならでは不納と雲、依て荼毘所々に火葬せんとすれば、棺桶の数退りもなく積重て、十日二十日の中には、火おかけることならず、其到来の順に荼毘すれば、日数おはるかに経ざれば為すこと能はず、是に於て貧者の亡骸は如何ともすべきやうなく、町所の長なる入々も、世話行届兼て、公庁へ訴へ申せしかば、夫々の御慈悲お賜はり、寺院に仰付られ、葬り難き亡骸は、回向の後、菰に包み、舟に乗せて、悉く品川の沖へ流し、水葬になさせられしと雲、考ふるに、正徳六年は、六月廿二日に改元ありて、享保元年となれり、彼の明暦三年の火災、に十万八千人の焼亡、当時猶言伝へて怖るれど、享保元年の天行病に、数万人の一時の死亡せしは、後に伝て言者のなきは、火難と違ひて書留し事のなきにやと雲々、又此疾正徳年間鎮西に起りて、小児の感冒最多く、漸次流転して尾州の地に及び、大人も適感ずる者あり、人呼で 早手( ○○) と雲、之お颶風の猝然として至るに比する也、爾後筑の前後年々行ると雲こと、今時医談、及筑人鷹取巽庵の小児暴痢新考に詳に見えたり、其後甚く行はれしお文政壬午の秋とす、瘟疫論発揮雲、壬午之疫、其初自朝鮮伝于吾西州、歴山陰逮浪華、無論老少強弱、闔戸伝染如破竹、死者日三四百人、好生緒言雲、壬午癸未間、西州天行病、水瀉二三行而目陥鼻尖雲々是なり、