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橘黄年譜

天保八年七月十四日夜、麻布狸穴旗下士坪田氏の児生て三歳、暴に発熱し、翌十五日朝に至り吐利甚、賑弦数、身熱焼が如く、時に心下に撞き、顔色青惨、眼閉て開能はず、煩渇飲お引、形体頗る脱す、余謾に認て厥陰寒熱錯雑の証とし、乾姜黄芩黄連人参湯お与ふ、無効而死す、此証俗間称して 早手( ○○) と雲、蓋迅速にして死するの意と雲、後南冥問答お読に、 西国の地此病猶多し( ○○○○○○○○○) 、 名て暴瀉病と雲( ○○○○○○○) 、又大神活庵治痢軌範雲、余以攻利為本、大凡無不治、人不知暴熱利、故世医往々誤治、当為長大息也、余因悔、早く大承気湯お与て之お下さヾることお、書して以後鑒とす、
尾陽村瀬白石曰、 はやて( ○○○) の病他邦に無処にして、吾尾のみに限れり、医亦其名お知らず、徒に呼で急症とす、延享の頃加藤玄順、平安より来り、治痢経験お著し、文化年間大鶴活庵治痢軌範お著すも、其所以お知らずと説けり、森蘭斉の颶説に至ては其説詳なれども、未尽ざるに似て痧病にあらず、吾邦風土一種の砺気にして、時気と食物との二つにあり、而後多くは痢となるもの也、時気のみの者は洩瀉し、或は痢お発し、食毒のみの者は霍乱おなす、故に未食物せず、隻乳哺のみの者は此症お発せず、嬰児二三歳より八九歳まで猶多、大人に希也、此症の発するや俄に大熱お発し、或は悪寒手足冷、或は発驚搐搦し、天弔直視、咬牙噤急お発し、或は腹痛嘔吐、呵欠困悶し、或は洩瀉し、或は洞瀉し、下痢悪臭也、其発する時、発驚吐瀉一斉に来る毛の、俗に三拍子揃ふと雲て、不治の症とす、若三症具るとも、其勢緩なるものは治せずと雲べからず、大熱下痢、驚お挟むもの葛芩連、昏睡して不醒者は重症とす、劇く下痢するも亦葛芩連なり、緩なるは葛根湯、加黄連、大下痢、脈沈微にして昏睡は、利多きに因る也、桂枝人参湯、加黄連、或は黄連理中湯、手足厥冷して覚ざる者は附子、理中、或は四逆加人参湯也、