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救瘟袖暦
疹疫の事蹟
完保の頃、 なべかぶり( ○○○○○) といへるはやり風有て、死亡甚多かりき、予八歳の時此病に罹れり、快復の比の事のみうす〳〵覚たり、眉より上脳後髪際に至るまで黒色になりて、鍋お冠りたる如し、色深ものは多は救ひがたの、予もや、正黒に近かりんよし、既に解するの後、其色うすく残りて、其黒所に小疹出で、少し水泡有て、かじけたりと覚たり、其後似たるものもなし、今考るに宝暦明和の頃、水痘の類の水痘にもあらず、又一種の発疹一般に流行せんことあり、其発前全く温疫にて未だ疹お発せずして救はざる者は、医も疹序なるお知らず、時疫とのみ思ひてすましたること多し、辛くして死お免るヽ時、総身に疹お発せり、発せる後は事なくして平安なり、此疹発せねば、多くは救がたし、救得ればおそかれとかれ発疹せざるはなし、水痘の如く少し水疱あるもあり、なきも有、人々にして少づヽ差別有、小大顆粒とヽのふらざる疹にて、さのみ稠密にもあらざりし、私に名づけて疹疫といへり、鍋冠も此類の毒深きものかと思はる、其以来一切見及ばぬ時疫なり、此症の治方は全く時疫の法にて、別に手覚のこともなし、予其頃はわきて疎漏なりければ、的方も定めかねたり、時有て経に伝て陽症も陰症も現はせり、盛熱の内に発疹するは即ち解して平安なり、升麻葛根湯など応ぜり、すべて葛根芍薬の類よく応ず、伝経に至れば経に従て治おなせり、天明の頃は此症はあらざれど、葛根葱白湯など諸症に通て相当せり、麻黄桂枝の症なきゆへ、本方葛根湯は却て功おなしがたし、正傷寒ならぬ温疫なる故なるべし、その頃の脚気腫衝心にも葛根葱白湯などにて功お成せり、皆是時行の気に感じて熱病にも脚気腫にも変ずればなり、〈○下略〉