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今昔物語
二十八
寸白任信濃守解失語第卅九
今昔、腹中に寸白持たりける女有けり、のと雲ける人の妻に成て、懐妊して男子お産てけり、其の子おばとぞ雲ける、漸く長に成て、冠などして後官得て、遂に信濃の守に成にけり、始めて其の国に下けるに、坂向への饗お為たりければ、守其の饗に著て居たりけるに、守の郎等も多く著たり、国の者共も多く集たりけるに、守饗に著て見下すに、守の前の机より始めて畢の机に至まで、胡桃一種お以て数に調へ成して悉く盛たり、守此れお見るに為む方無く詫しく思て、隻我が身お洨る様にす、然れば思ひ詫て、守の雲く、何なれば此の饗に此く胡桃おば多く盛たるぞ、此は何なる事ぞと問へば、国人の申さく、此の国には万の所二胡桃の木多く候ふ也、然れば守の殿の御菜にも、御館の上下の人にも、隻此の胡桃お万に備へ候ふ也と答ふれば、守弥よ為む方無く詫しく思えて、隻身お洨る様にす、然れば穴 迷て術無気に思へる気色お、其の国の介にて有ける者の、年老て万の事知て物思えける有けり、此の守の気色お見て怪と思て、思ひ廻すに、若此の守は寸白の人に成て産たるが、此の国の守と成て来たるにこそ有めれ、此の気色見るに極く心不得ず、此れ試むと思て、旧酒に胡桃お濃く摺入れて、提に入て熱く涌して、国の人に持せて、此の介は盞お折敷に居えて、目の上に捧て畏まりたる様して、守の御許に持参れり、然れば守、盞お取たるに、介提お持上て、守の持たる盞に酒お入るに、酒に胡桃お濃く摺入たれば、酒の色白くして濁たり、守此れお見て、糸心地悪気に思て、酒お盞に一杯入れて、此の酒の色の例の酒にも不似ず、白く濁たるは何なる事ぞと問へば、介答へて雲く、此の国には事の本として守の下り給ふ、坂向へに三年過たる旧酒に胡桃お濃く摺入れて、在庁の官人瓶子お取て、守の御前に参て奉れば、守其の酒お食す事定れる例也と事々しく雲ふ、時に守此れお聞て、気色弥よ隻替りに替て、篩ふ事無限し、然れども介が定りて此れ食す事也と責れば、守篩々ふ盞お引寄するまヽに、実には寸白男更に不可堪ずと雲て散、さと水に成て流れ失にけり、然れば其の体も無く成ぬ、其の時に郎等共此お見て驚き騒て、此は何なる事ぞと雲て怪び喤る事無限し、其の時に此の介が雲く、其こ達は此の事お知り不給ずや、此れは寸白の人に成て生れて御たりける也、胡桃の多く被盛たるお見給て、極く難堪気に思給ひたりつる気色お見給へて、己は聞置たる事の侍れば、試むと思給へて、此く仕たりつるに、否堪給ずして解給ひたる也と雲て、皆国人お具して棄て国へ返ぬ、守の共の者共、雲ふ甲斐無き事なれば、皆京に返り上にけり、此の由お語ければ、守の妻子眷属も皆此れお聞て、早う寸白の成たりける人にこそ有けれとは、其れよりなむ知ける、此れお思ふに、寸白も然は人に成て生る也けり、聞く人は此れお聞て咲けり、希有の事なれば此く語り伝へたるとや、