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武徳編年集成
九十
元和二年三月廿七日、是日、〈或日廿八日〉片山与庵法師お召て、御薬お一占調合させ、本多上野介是お煎じ、御服用の処、忽皆吐せ玉ふ、斯て台徳公へ命有しは、御不例の始めよりして、御命援に極ることお測り玉ひ、御薬御服用有べからずと雖ども、大樹殊の外御心お悩さるヽこと上聴に及る故、御孝心黙止がたく、御服薬有しかば、斯の如、御胸中に納らざれば、最早無益なる由にて、是より御療養に及ばれず、御臥拓へも嬬子お禁ぜられ、近寄ことお得ず、無類の寵臣本多佐渡守東武にて老気に沈て駿府に来ることあたはずと雲、
或曰、台徳公、与庵法印宗哲に御療養の事お議し玉ふ処、渠が曰、当正月廿一日夜、御痰涎御胸に塞がり、危きに至らせ玉ふ故、御薬お献じ、廿四日には、聊御快験、田中より還駕有し後、御腹中に塊有て、時々痛ませらる、是お 寸白虫( ○○○) 也とて、日々万病円お召上らる、賤臣是お嘆ず、万病円は大毒の剤也、御積塊は除ずして御元気お傷ふべしと、諌言お遂ると雖ども、御許容なしと雲、援に於て、尼近の族お召て、彼丸薬数日御服用と雖も、微験なき上は、是お止て用ひらるヽ事なかれと諌諍すべき由、台徳公の命重しと雲へども、皆凝滞す、是に於て、与庵に台命有ゆへ、神君に再び熟く諌し奉りければ、甚御旨に応ぜず、信州諏訪へ謫せらる、〈元和四戊午四月十四日、台徳公渠が熟諌おなす深忠お憐んで、諏訪より召返し、旧地お賜ふ、〉