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医学天正記
乾下
下血
一会津宰相氏郷、〈蒲生忠三郎也、年三十余〉、朝鮮征伐之頃、於肥前名護屋患下血、諸医技既尽、而堺之宗叔治之而愈、予其時従朝鮮帰而上洛、故後之、翌年之秋、法眼正純語曰、氏郷へ養生薬進上すと、時予曰、名護屋にて所労後、脈おば不見、面色お候ふに、終に不調、黄黎にして頂頸の傍、肉痩消して目下微浮腫、若腹脹、肢腫生せば、必大事なるべし、薬進上すとも分別あるべしと、其後十一月に、大閤秀吉公御成お申、予其供奉時に、又顔色お候ふに腫弥甚、其後脹腫増、十二月朔日、大閤殿下、民部法印の亭に座し玉ひて、薬院予二人お召して、氏郷所労如何と聞玉ふ、二人曰、終に不能診脈、薬は誰か与と問玉ふ、堺の宗叔の薬と申、左右の大納言家康、中納言利家二人に仰て、諸医お召て脈お見せよと、即上池院、竹田驢庵、盛方院、祥寿院、一鴎、祐安、其外巳上九人、氏郷の床下に至る、家康利家左右に在て、諸医脈お見て退く、同月五日、利家、家康卿、予一鴎とお召して、氏郷脈の様体お問ふ、予曰、十は九つ大事也、今一つかヽるは年の若と食のあると計也、猶食減、気力衰ては、十は廿も大事なるべしと申、利家曰、残の医一人づヽに尋しに、或は十に五つ大事、或は十に七八は大事と申す、宗叔お召して曰、玄朔は十に廿も大事なるべしと、残の医は或は十に五六七八と雲、如何にと、宗叔曰、十は一つ六箇敷存と申、其後利家予に対して曰、氏郷所労弥々悪し、宗叔の薬お止むべし、今日より療治せよと、予が曰、宗叔十死と見て放たらば、五日三日薬お与へて可見申、不然ば斟酌と申、宗叔お召して其旨お仰らるヽに、尚十に一つは如何と申、故翌年文禄四年正月未止宗取薬也、次第に気力衰食減じて、一鴎薬お与へて、十余日にして果して卒す、