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和州旧跡幽考
三添上郡
奈良坂癩人
いつの比よりにやありけん、癩人の住宅となれり、むかし此所に手足まとはれて、行歩もかなはざれば、袖ごひもかなはず、日お経るといへども、物もくはざりける癩人あり、その比忍性律師は西大寺にぞ住おはしける、かゝる癩人お見給ひていとあはれがり、暁ごとになら坂のいほりにいたりて、癩人おうしろにおひ来り、市中にすへおき、暮ぬれば又おひてかれがいほりにおくりかへし、風雨寒暑にもおこたりなし、癩人臨終の時ちかひあり、我かならず又此世界にうまれて、師につかへて厚恩お報じ奉らん、顔に一瘡お残してしるしとせんといひてぞおはりける、その後忍性律師につかへし人の中に、あながちにつかうまつるものあり、かほに一瘡あり、時の人癩者の後身とぞいへる、忍性律師の修営の伽藍八十三所、塔婆二十基、大蔵経一十四蔵、諸国の川橋一百八十九所、嘉元元年七月十二日おはりおとる、年八十七、〈釈書〉