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賎者考
伊勢物語にかたい翁とある類是なり、さるお今癩病者お、かつたいといふより、此病者の事と心得るはひがごとなり、さる悪疾などの者、世に忌嫌はるゝより、ひとしく悲田院施薬院に入て乞食となりし故に、総名にていふなり、此病者のみの称にあらず、或説に此悪疾お漢土にて害大風といふ、故に害大の意なりなどいへど、中々にわろし、さやうに物遠き名お昔はとり出ていふことはなかりし事なり、適似たるにこそあれ、そは偶中なりと、玉かつまにも弁あり、五雑俎に、癩病者に戯れて、大風起兮眉飛揚、何得壮士護鼻梁、と作れる事など見ゆ、又或人この悲田院の事にて思ふに、前条にある夙といふも是類にて、もと宿疾の者などお疎みて、宿といひしにはあらぬかといへり、按ずるに、其あたる所はさもあるべけれど、宿の名義お宿疾の宿といふより出ると見るは、少し物遠く聞ゆ、されど其意は遠からじ、昔より此悪疾は忌み来れば、裔お他につたへざる為に、郭外に出して別居せしめし制の残りてにや、洛東の物吉といふ村は、癩病人のみ居る地にて、常は他にいです、いさゝかの耕耘、又草履草鞋などお作る、正月のみ一度づゝ洛中お巡りて、物吉とよびて戸別に物お乞ふ、大戸小戸に応じて乏少なれば益お乞ふ、正月吉祥おいのるころに、さる者の来るお忌みて、遠く声の聞ゆるより、家毎に施すべき米銭お出して、持出て我門戸に至らざるほどにはやく附与す、益お乞はれなどすれば、門にいたりて蜘躊する故に、さらぬやつに過分に皆あたふれば、一日の所得火しとぞ、かくとは無けれど、他所他邦にも此類の群居する地は往々きこゆれば、同じ制度なりしなるべし、〈奈良の般若寺坂、伊勢の北多度村の辺、紀国の三井寺村の辺、その他聞及べるも多し、〉