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太平記
三十
慧源禅門逝去事
斯し後は、高倉殿〈○足利直義〉に付順ひ奉る侍の一人もなし、籠の如くなる屋形の荒て久きに、警固の武士お被居、事に触たる悲み、耳に満て、心お傷しめければ、今は憂世の中にながらへても、よしや命も何かはせんと思ふべき、我身さへ無用物に歎給ひけるが、無幾程其年の観応三年壬辰二月二十六日、忽に死去し給ひけり、俄に黄疸と雲病に被犯、無墓成せ給けりと、外には被露有けれ共、実には酖毒の故に、逝去し給けりとぞさヽやきける、