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源平盛衰記
二十七
資永中風死事
九月〈○養和元年〉廿日、城太郎資永が弟に、城次郎資茂と雲者あり、改名して永茂と雲けるが、早馬お六波羅へ立、平家の一門馳集て、永茂が状お披くに雲、去八月廿五日、除目の聞書、九月二日到来、謹で披覧之処に、舎兄資永、当国の守に任ず、朝恩の忝に依て、明三日義仲追討の為に、五千余騎の軍士お卒して、重て信州へ進発せんと出立ぬる夜の戌亥の刻に当て、地動き天響て雲上に音在て雲、日本第一の大伽藍、金銅十六丈の大仏焼たる、平家の方人する者ありやと叫始て、其声通夜絶ず、是おきく者身毛竪ずと雲事なし、資永即 大中風( ○○○) して、病に臥し、うですくみて、思ふ状おも書置かず、舌強して思ふ事おも雲置かず、明る巳時に悶絶僻地して、周章死に失候畢ぬ、仍永茂兄が余勢引卒して、信濃へ越んと欲して、軍兵お催すといへども、資永任国の越後は、木曾押領の間、不及国務、北陸の諸国、木曾に恐て一人も不相随とぞ申たる、此状に驚て、同二十八日、重て左馬頭行盛、薩摩守忠度、大将軍として数千騎の軍兵お相具して北国へ発向す、