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本朝医談
四百年前、人の引こもりし時、 湿熱( ○○) の病とも見えずと雲ふ事あり、湿熱といふ事は、宋人よりいひ出して、丹渓に至て、其説大に行はる、唐土の古人は、万病皆風寒より起ると心得たり、傷寒論も其意なり、されば病人十に七八温熱の剤お用ふ、丹渓の発揮せし局方の薬も、宋の時初て作りしにもあらず、古人乳石お服する余意なり、乳石は巍晋六朝より唐まで流行して、服する人寒食冷飲して其熱毒お解するに至る、其禍お蒙るもの少からず、こゝに於て宋の諸老病の因は、風寒は少く湿熱多しといふ説お立しなり、是説おこらざりせば、五石散の害。今の世までも伝るべし、斯邦にも仁明帝自ら五石お煉給ひし事あり、三条院金液丹おめしたり、其薬くひたる人は、目おやむと大鏡にみえたり、平相国の身、火のやうになりたるも、已に富貴きはめつ、若くは欲にあかずして、乳石の剤お服せられし歟、夫唐土の州域は南北甚広し、北土の病風寒によるなれば、熱薬によろしかるべけれど、南土の人は風寒の病少く、湿熱の因多し、これによりて南北経験の説出たり、大成論には病門毎に暑湿おもいひて、風寒の二因ばかりにかゝはらず、我邦は唐土の南土に近く、人民卉服して裘服せず、されば風寒の病少く、湿熱の病おほかるべきなり、〈天文医按、春の末より秋の末まで熱気なり、しはふき出、すヽはな出れば、風お引候やうにこゝろへられ候、大にひが事に候、冬に候はゞせめてなり、又あつき物お好候ものも、煩によりて熱気にも其分候、当世は寒の者百人の内一二人もなく候、是は風寒湿の因おとらず、病は皆熱とせし説也、〉