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沙石集
三始
癲狂人之利口事
或里に癲狂の病有る男ありけり、此病は火の辺、水の辺、人の多かる中にして発る、心うき病也、俗は くつち( ○○○) と雲へり、或時大河の岸にして、例の病おこりて、河へおち入ぬ、水の上にうかびて、はるかに流行て、河中の洲さきに、おしあげられぬ、とばかり有て、よみがへりて、こはいかにして、かヽる所にあるにかと思めぐらす程に、例の病によりて、河へ落入にけり、あぶなかりける命かなと浅猿覚えて、独言に死たればこそ生たれ、生たらば死になまし、かしこくして死してんける、けうに死ぬらふにとぞいひける、まことに大河の流疾く、底深ければ息絶ずは沈て死なまし、息絶ぬればうかぶ事にてこそ、角助ぬる事お雲けるにこそ、忌き利口なり、