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窻の須佐美

小野浅之丞とて、半之丞の甥なりしとぞ、十七八歳ばかりのころ、隣の家より、猫の来りて、飼鳥お取る事度々なりしかば、にくきものかな、射殺しなんとおもひ居けるおり、向ふの築山の陰に、猫の戯遊ぶお見附て、あはやそれぞと神頭の矢おつがひ、ひそかにねらひよりて是お射に、あやまたず中りて、其儘たおれぬ、立寄て見れば、日頃のにはあらず、外のなり、あなあさまし、にくしと思へばこそ射つれ、これには罪もなきものおと、後悔すれどもかひなし、日暮しまゝ一間なる所にありしに、ひるまの猫の事心にかゝり、さるにてもよしなきことして、思ひがけぬあやまちしつ、心よく遊居しお射たる聊爾さよと、くれ〴〵と思ひなげき、夜も少しふくるころ、ふしまに入けれと、快も寐られざりければ、衾おかづきて、つく〴〵と思ひつゞけて居しほどに、ほのかに猫のなく声すれば、ふしぎや、ひるまのなき声にも似たる哉と思ひ、枕おあげて聞に、ひたなきになく、はては床の下に声のするやうなれば、ふしぎさよとあやしく、心おつけて聞けば、ふくるにつけてしきりになく、いかゞしてかゝるぞと障子の外に出てきけば、縁の下になく、おり立ておひぬればやみぬ、さてはなかりしなと思ひつゝ、立入てうち伏せば、又枕の下に声す、夜一夜いもねず、明ければ止みぬ、さして怪しかりつるかなとおもひし、人に語るべくもあらねば、心一つに思ふて声すべきやうなし、若も生かへりたるにやと、何となく築山の辺お尋ね見、床の下の塵はらへと人お入て、何事もあらずやと問へば、蜘の網ならではなしと答ふ、とかくして夜になりて臥しければ、まへの如くひたなきになきしかば、目もあはずして明しぬ、昼ほどになれどもおきやらで、衾引かづき有けるお、人々心もとながりて問つらねしほど、やう〳〵日たけておきいでたれば、今日は昼になりても止ず、亭に出ても、おやの前に有ても、我居る床の下に声たへず、暮れかゝる比よりは、我腹の中に鳴く、いよ〳〵うるさし、とやせんかくやと思へば、猶うちしきり鳴く、これよりしておのづから病人となりて、物喰事も得せざりしかば、日に〳〵かたちもおとろへゆき、人心地もなく一間にとぢこもり、腹おおさへてうづくまりてのみありける、こゝに伯父の何某聞ゆる勇士にて智謀ありしが、来りて雲けるは、女不慮の病おうけて、その儘ならば命終らん事程あらじ、然れども少年なりとも士たるものゝ、獣のたぐひに犯されて病死なんは、世の聞所、先祖の名おも汚さんことも口惜からずや、とても永かるまじき身おもつて、いさぎよくして憤りお忘れざる事お世にしらせば、少は恥お雪ぎなん、自はかり見よかしとありしかは、浅之丞うちうなづき、仰までもなく始より口惜く、いかにもなりなんと存ずれど、親達のなげき給はんは心ぐるしくて、今までのび候なり、此上はいよ〳〵思ひきわめ侍ふと雲ければ、いしくも心得たり、親達にもかくと答へ知らせて、明日の夜来りて介錯しなん、おもひ残す事なき様よくしたゝめ置れよと約して帰りぬ、その夜になりしかば、宵過るころ伯父来り、湯あびさせ、衣服お改め、父母に見えて暇乞はせける、親の心量り知るべし、子一つ計になりしかば、いざ時も至りぬ、隻今思ひきはめよといひしかば、心得候ぬ、御はからひにて恥辱お雪ぎなん事、いみじう悦しくこそ、此上跡の見ぐるしからぬ様に頼み奉ると式礼して、白く清げなる肌おぬぎ、刀お取てすでにおしたてんとする時に、伯父の雲よふ、今しばらく待てよ、女今死ぬるは猫の腹に入て声するが為に、わづらはされて恥しさにの事にあらずや、今はの時に夫ぞともきかずして終らんは詮なし、今一度まさしく聞定て、其声にしたがひて刀おおし立よと有ければ、刀お持ながら聞に声せず、いかゞし候やらん、宵までありつるが、聞へず候はと雲ければ、それは死に臨て心おくれて聞へぬなり、心おしづめてよく聞と、うちしきり問へとも、聞へ申さずといふ、さらば今しばし待て、其わかちもなくて急ぎなんは、誠に犬死ぞかし、夜更るとも聞定ての事よとて、一夜附居てしば〳〵問ひしかども、終に声のせぬよしなりければ、さらばとゞまれと、うちわらひてやみぬ、これよりして後絶て心にかゝる事もなかりけり、かしこかりけるはかり事哉と、時の人申せしとぞ、