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蛍雪余話

予〈○香月牛山〉豊前の国中津に在し時、ひとりの奇病お療す、二十四歳の男子、一両年已来、夏の始つかたより、初秋の比まで、舌乾燥して、津液少く、舌上あれて鮫皮のごとし、今年六月、此病発る事例年よりも甚し、七月の初より、舌の上しきりに乾燥して、 舌上に一夜の間に毛お生ず( ○○○○○○○○○○○○) 、舌の上正中一筋、其色黒く、毛長き事二三分ばかりにして、其数幾といふことなし、上腭お衝て、其苦悩する事いはんかたなし、其外苦む事なし、かくのごとくなるもの二十余箇日、諸医に逢て、其病因おとひ、薬お服すれども、其効もなく、又其病因お知者なし、予其頃は邦君の疾の急ない時にして、公所に在て、見るに暇なし、門人阿部氏によつて、其病因おとひ、且其治おもとむ、予曰、此病これ心火有余の証なり、それ人の五内には毛お生ずる事なきものは、これ津液あつて乾く事なきがためなり、譬ば水の流るゝ所には草生ずる事なきがごとし、元気めぐつて経絡の血流行するときは、津液乾く事なし、舌は心の主るところ、火有余なるときは、心血乾て腠理のごとぐなるによりて毛お生ず、譬ば池水涸て沢辺となれば、湿草おのづから生ずるの義に同じ、土あればこゝに草生ずる成べし、水深く水流るゝ所には草の生ずる事なきがごとし、しかれば心火有余、心血乾燥して、此症おなす成べし、心火お瀉して後、心血お増ときは、其病愈べし、阿部氏に命じて治せしむ、竹葉石膏湯に当帰、芍薬、麦門冬、黄連、連翹お加へて、これお服せしむ.朱砂安神丸お兼服す、二十余占にして、舌上の毛こと〴〵くぬけて、舌の乾燥太半お減ず、後に消遥散に、山梔子、麦門冬、酒製の苓連、連翹お加へ、数占お服してその病愈たり、此病お以これお考れば、土あつて少く、水の潤沢ある所には草よく生じ、気血のとゞまつて濡潤なる所に毛お生ずるの義と知べし、此医按、予があらはすところの遊豊司命録に載たり、其義詳也、考へ見てしるべきなり、