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太平記
十八
春宮還御事附一宮〈○尊良〉御息所事
松浦は、適我船に、此女房の乗らせ給たる事、可然契の程哉と無限悦て、是までぞ、今は皆船に乗れとて、郎等眷属百余人捕物も不取敢、皆此船に取乗て、渺の奥にぞ漕出したる、武文、渚に帰来て、其御船被寄候へ、先に屋形の内に置進せつる上臈お、陸へ上進せんと喚りけれ共、耳にな聞入そとて、順風に帆お上たれば、船は次第に隔りぬ、又手繰する海士の小舟に打乗て、自櫓お推つヽ何共して、御舟に追著んとしけれ共、順風お得たる大船に、押手の小舟非可追付、遥の沖に向て、挙扇招きけるお、松浦が舟にどつと笑声お聞て、安からぬ者哉、其儀ならば隻今の程に、海底の竜神と成て、其船おば遣まじき者おと忿て、腹十文字に掻切て、蒼海の底にぞ沈ける、御息所は夜討の入たりつる宵の間の騒より、肝心も御身に不副、隻夢の浮橋浮沈み、淵瀬おたどる心地して、何と成行事共知せ給はず、船の中なる者共が、あはれ大剛の者哉、主の女房お人に奪はれて、腹お切つる哀さよと沙汰するお、武文が事やらんとは作聞召、其方おだに見遣せ給はず、隻衣引被て、屋形の内に泣沈ませ給ふ、見るも恐ろしく、むくつけ気なる髭男の、声最なまりて、色飽まで黒きが御傍に参て、何おかさのみ、むつがらせ給ふぞ、面白き道すがら、名所共お御覧じて、御心おも慰ませ給候へ、左様にては何なる人も、 船には酔物にて候( ○○○○○○○○) ぞと、兎角慰め申せ共、御顔おも更に擡させ給はず、隻鬼お一車に載せて、巫の三峡に棹すらんも、是には過じと御心迷ひて、消入せ給ぬべければ、むくつけ男も舷に寄懸て、是さへあきれたる体なり、其夜は大物の浦に碇お下して、世お浦風に漂ひ給ふ、明れば風能成ぬとて、同泊りの船共、帆お引梶お取り、己が様々漕行ければ、都は早跡の霞に隔りぬ、九国にいつか行著んずらんと、人の雲お聞召すにぞ、さては心つくしに行旅也と、御心細きに付ても、北野天神荒人神に成せ給し其古への御悲み、思召知せ給はヾ我お都へ帰し御座せと、御心の中に祈せ給、其日の暮程に、阿波の鳴戸お通る処に、俄に風替り塩向ふて、此船更に不行遣、船人帆お引て、近辺の礒へ舟お寄んとすれば、奥の塩合に大なる穴の底も見へぬが出来て、船お海底に沈んとす、水主梶取周章て、帆薦なんどお投入々々、渦に巻せて、其間に船お漕通さんとするに、舟曾不去、渦巻くに随て、浪と共に船の廻る事、茶臼お推よりも尚速也是は何様竜神の財宝に目懸られたりと覚へたり、何おも海へ入よとて、弓箭太刀刀鎧腹巻数お尽して投入たれども、渦巻事尚不休、さては若色ある衣裳にや目お見入たるらんとて、御息所の御衣、赤き袴お投入たれば、白浪色変じて、紅葉お浸せるが如くなり、是に渦巻き少し閑まりたれ共、船は尚本の所にぞ回居たる、角て三日三夜に成ければ、船の中の人独も不起上、皆 船底に酔臥て( ○○○○○○○) 、声々に呼叫ぶ事無限、御息所は、さらでだに生る御心地もなき上に、此浪の騒になお御肝消て、更に人心も坐さず、よしや憂目お見んよりは、何なる淵瀬にも身お沈めばやとは思召つれ共、さすがに今お限と叫ぶ声お聞召せば、千尋の底の水屑と成、深き罪に沈なん後の世おだに、誰かは知て訪はんと思召す、〈○下略〉