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神武天皇の妖気お掃蕩し、天基お草創するや、初て封建の制お立てたり、彼の国造県主の類、永く其地に居り、官お以て家お世するが如き皆是なり、垂仁天皇の息速別命お伊賀国阿保村に封じ、景行天皇の諸皇子お国郡に封ぜしが如きも、皆其土お有し、其民お司りしなり、而して乳部と雲ひ、部曲と雲へるが如きも、多くは其封邑の民お謂ふなり、孝徳天皇に至るに及びて、始て郡お立て郡司お置き、国造等が部曲田荘お罷め、大夫以上に食封お賜へり、是れ即ち封建お発し、郡県と為したるなり、是に於て封戸お賜はる者も、唯其賦税お得るのみにて、其地に臨むこと能はず、而して賦税は国郡司の掌る所たり、
天武天皇に至り、親王以下の封お収めしかど、久しからずして復せしならん、是より先き天智天皇の時に、始て令お設けしかば、封戸の制おも具せしならん、而れども其書伝らざれば知るに由なし、文武天皇に至り、更に令お修め、封戸の法お立てたり、封戸の品一ならず、職封あり、位封あそ、功封あり、国封あり、別勅賜封あり、又神封あり、皇后の封あり、〈後には太上天皇の封あり〉而して諸家の封〈職封位封の類お謂ふ〉には、必ず課戸お以て充つ、不課戸お充てざるは、税の外に得る所なきお以てなり、封戸より入る所は、租あり、庸あり、調あり、仕丁あり、調庸は全給すれども、田租は半給したりしお、元明天皇の和銅七年に、始て長親王等に限り全給し、聖武天皇の天平十一年に、総て全給することヽなれり、而して運送の傭食は、旧は其租お割きて充てしお、天平十年に至り、正税お以て之に充てたり、其後又封租お軽貨〈布帛の類お謂ふ〉に交易し、或は舂きて米と為すには、舂功も運賃も、共に租の内お用いることヽ為れり、凡て封戸の地は、神田、寺田、〈並に不輸租〉口分田、功田〈並に輸租〉等相錯りて、輸租あり、不輸租あれば、封主は輸租の分のみお得るなり、〈封戸の地に、輸租田、不輸租田の相錯れることは、本文に載する所の相模国天平七年封戸租交易帳に見えたり、〉又調には絁布の別ありて、其直均しからざれば、諸家の封戸は各三分とし、一分は絁お輸す国お充て、二分は布お輸す国お充つ、されども決して封戸に充てざる国あり、是お禁国と雲ふ、凡て一戸の人口は同じからざれば、同数の戸に封ぜられたる者も、其所得には多少の異あり、因て聖武天皇の天平十九年に、丁は正丁五六人、中男一人、租は稲四十束お以て一戸の率としたりしが、後に正丁四人、中男一人としたり、後世封戸の事永く絶えて、院の御庄、神田等にのみ僅に其名お存して、封戸田と雲へり、