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功封は親王の一品より、諸臣の五位に至るまで、皆其勲績に因て賜ふ所なり、即ち其差四等あり、大功、上功、中功、下功是なり、而して大功の人其身死亡すれば、減半して三世に伝へ、上功は三分の二お減じて二世に伝へ、中功は四分の三お減じて其子に伝へ、下功は其身に止まりて子に伝へず、子と雲ふは男女お択ばずして均分し、其子又数人の子あるときは、逓に亦均分するなり、若し子なくして嫡孫お以て嗣とすれば、伝ふることお得ざれども、唯兄弟の子お養子とするときは、之お伝ふることお得るなり、其封お承くる者又子なきときは、之お伝ふるの法亦上に同じ、又其封お受くべくして、受けずして死するときは、其子に授くるなり、要するに功田は世々に伝ふるの法あれども、功封には三世お過ぐるの制なきなり、今歴世お通観するに、功封の殊に大なる者は藤原氏に若くはなく、永世に伝ふるの詔お承けたるも、藤原氏の外にあることなし、鎌足の皇極、孝徳、斉明、天智の四朝に功あるや、之に一万五千戸お賜ひ、世々絶えざらしむ、夫れ一万五千戸の地は、其広さ三百郷〈郷は即ち里なり、孝徳紀及び令に五十戸お里とすとあり、〉に跨れり、当時の郷数は考ふべからずと雖も、姑く倭名類聚抄に依るに、全国四千四十郷ありて、三百郷は其十三分の一に近し、文武天皇の朝に、又其子不比等に五千戸お賜ひしお、辞して受けざれば三千戸お減じ、二千戸お賜ひ、其内の一千戸お子孫に伝へしめたり、而るに聖武天皇の天平十三年に至り、不比等の家より五千戸お奉還せしお、二千戸は其家に還し、三千戸お国分寺に施入するの文あるお観れば、其間に又全封お賜ひしならん、是に於て藤原氏の功封は前に通じて一万七千戸とす、一万七千戸の地は大約三百四十郷なれば、全国十二分の一に過ぎたり、又淳仁天皇の天平宝字四年に至り、近江国十二郡お以て、不比等お追封して淡海公とせり、近江は倭名類聚抄に拠るに九十三郷あれば、即ち五千戸に近き国なれども、仍ほ其実封は二千戸にして、別に加増せしにはあらざりしなるべし、称徳天皇の天平神護元年に、不比等の孫豊成〈武智麻呂の子〉二千戸お奉還したりしが、光仁天皇の宝亀元年に還し賜ふ、其後又不比等の曾孫内麻呂、〈房前の孫にして、真楯の子なり、〉園人、〈房前の孫にして、楓麻呂の子なり、〉並に其封お割還せしかど、並に允許お蒙らざりしお、嵯峨天皇の弘仁十一年に至り、詔して其封お朝廷に全収せり、是に於て其族は降りて白丁と為る者ありとも、其五世に至るまでは、課役お蠲除することヽせり、其後美濃公、〈良房〉越前公、〈基経〉信濃公〈忠平〉等に追封せらるヽ者ありと雖も、一だび受て即ち還すお以お例とするが如くなれば、概するに皆名号侯の類なり、而して上二臚列する所、其封お辞する者、一宗に出でざるは、子孫の兄弟逓に均分せし故なり、猶ほ功田篇お参看すべし、