[p.0075][p.0076]
職田、又は職分田と雲ふ、其職官に因りて給する所の田なり、其之お賜ふ者は、内官に在りては、太政大臣、左右大臣、大納言、及び諸道の博士、助教、直講、坊令にして、外官に在りては大宰府の府掌以上、諸国の史生以上、博士、医師、及び郡司、軍毅等なり、而して職田は、班田の年お待たず、職官お得れば即ち給し、犯罪ありて解官し、及び身死すれば、即ち収むる例なれども、藤原不比等の如きは、薨後十三年お歴て始て収めたり、但し内官の人は、理お以て解官し、及び致仕するときは、職封に準じて半給すれども、外官は即ち全収せらるヽなり、又職田は、交代以前に種お下したるは前人に入れ、前人既に耕して未だ種えざるは、後人其田お受けて功直お前人に酬ゆ、而して田お前人に属するときは、秋収に至るまで穫らん所の年実お計り、公粮お後司に給す、但し前任去任の後等にて、其田闕官田たれば、其間は雑徭お以て佃種する故に、新任の人、就職赴任の日に、苗子お徭丁に給付す、又元より賜田ある人、職田お得べき官お得れば、賜田の数お補ひ、職田として賜ふ、又位田ある人は、職田お累給するなり、外官の職田は、又公廨田とも雲へり、公廨田は、唐制お按ずるに、諸司に給する所の名なるお、我邦には、外官の職田にも、在京の諸司田にも、並に此称あり、〈在京の諸司田お公廨田と称する事は、政事部諸司田篇に詳なり、〉国司の職田は大に因革ありて、桓武天皇の延暦十六年に、畿内国司に職田お給することお停めしが、十七年に至り、其制お全国の国司に及ぼし、其穫る所の稲お正税に混じて出挙し、其利息お以て俸に充て、並に借貸お聴せり、借貸とは、無利息にて貸すお雲ふ、而るに十九年に至りて、復其職田お置くことヽなれり、又遥授国司、及び任に到りて後に、京に留りて一年お経たる者は、職田お受くることお得ざれども、遣唐使にして国司お兼ねたる者には、授けたることあり、さて国司等の職田は、事力お以て営種せしむるなり、郡司の職田は、狭郷とて田地不足の地なれば、口分田の例に準じて、必ずしも全給せず、例へば男一人の口分田は二段なるお、狭郷にて一段半お受くべければ、大領の職田六町は全受することお得ずして、四町半お受くるなり、而して権任郡司、擬郡司は職田お受くることお得ず、凡て職田は不輸租田なれども、郡司の職田は輸租田にして、其租お官二納め、其余お受くるなり、而して闕官田、即ち無主職田は、総て輸地子田なり、