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今昔物語
二十八
越前守為盛付六衛府官人語第五
今昔、藤原の為盛の朝臣と雲ふ人有けり、越前の守にて有ける時に、諸衛の大粮米お不成ざりければ、六衛府の官人下部に至るまで皆発て、平張の具共お持て、為盛の朝臣が家に行て、門の前に平張お打て、其の下に胡床お立て、有る限り居並て、家の人おも出し不入ずして責め居たりけり、六月許の極く熱く日長なるに、未だ朝より未の時許まで居たりけるに、此の官々の者共、日に炮迷はされて為む方無かりけれども、物の不成ざらむに返らむやはと思て、念じて居たりけるに、家の門お細目に開て、長なる侍、頭お指出て雲く、守の殿の申せと候ふ也、須く疾く対面給はらは欲けれども、事の鍔しく被責れば、子共女などの恐ぢ恐侍れば、否対面して事の有様も申し不侍ぬに、此く熱き程に、無期に被炮給ひぬらむに、定て御咽共も乾ぬらむ、亦物超しに対面して、事の由おも申し侍らむと思給るお、忍やかに御坏など参せむと思ふは、何か便不無まじくは、先づ左右近の官人達舎人など入給へ、次々の府の官人達は、近衛官の人達の立給なむ後に可申し、一度に可申けれども、怪の所も糸狭く侍れば、多く可群居給ぬべき所も不侍ねば也、暫し待給へ、先づ近衛官の官人達入給なむやとなむ侍ると雲へば、日に被炮て実に咽も乾たるに、此く雲出したれば、事の有様おも雲はむと思て、喜びお成して、糸喜き仰也、速に参り入て、此く参たる事の有様おも申し侍らむと答ふれば、侍其の由お聞て、然ばとて門お開たれば、左右近の官人舎人皆入ぬ、中門の北の廊に長筵お西東向様に三間許に敷せて、中机二三十許お向座に立て、其れに居うる物お見れば、塩辛き干たる鯛お切て盛たり、塩引の鮭の塩辛気なる亦切て盛たり、鰺の塩辛、鯛の醤などの、諸々塩辛き物共お盛たり、菓子には吉く膿たる李の紫色なるお、大きなる春日器に十許づヽ盛たり、居畢て後に然ば先づ近衛官の官人の限、此方に入給へと雲へば、尾張の兼時、下野の敦行と雲ふ舎人より始めて、止事無き年老たる官人共、打群て入来ぬれば、他の府の官人もぞ入ると雲て、門お閉て鏁お差して鎰お取て入ぬ、官人共は中門に並居たれば、疾く登り給へと雲へば、皆登て左右近の官人東西に向座に著ぬ、其の後、先御坏疾く麦れよと雲へども、遅く持来る程に、官人共物欲かりけるまヽに、先づ匆て箸お取つヽ、此の鮭鯛の塩辛醤などの塩辛き物共おつヽしるに、御坏遅々と雲へども、疾にて不持来ず、守対面して聞ゆべけれども、隻今乱れ風難堪くて、速かにも否不罷出ず、其の程御坏食て後に可罷出しと雲はせて不出来ず、然て御坏参らす、大なる坏の窪やかなるお二つ、各折敷に居て、若き侍二人捧て持来た、兼時敦行が向座に居たる前に置つ、次に大なる提に酒お多く入て持来たり、兼時敦行各坏お取て、泛許受て呑に、酒少し濁てすき様なれども、日に被炮て喉し乾にければ、隻呑に呑て、持作ら三度呑つ、次々の舎人共も皆欲かりけるまヽに、二三坏四五坏づヽ、喉て〈○喉て二字恐衍〉喉の乾けるまヽに呑てけり、李お肴にして呑に、亦御坏お頻に参せければ、皆四五度五六度づヽ呑て後に、守簾超に居ざり出て雲く、心から物お惜むで、其達に此被責申して、恥お見とは何でか可思き、彼の国に去年旱魃して、露徴得る物無し、適ま露許得たりし物は、先づ止事無き公事に被責しかば、有限り成し畢て、努々残物無ければ、家の庖料も絶て、侍女童部なども餓居て侍る間に、此る恥お見侍れば、可然き事と思てなむ侍る、先づ其達の御料に、墓無き当飯おだに否不参せぬにて押し量り給へ、前生の宿報弊くて、年来官お不治らで、適ま己が国に罷成て、此く難堪き目お見侍るも、人お可恨申き事にも非ず、此れ自の恥お可見き報也と雲て哭く事極し、音も不惜まず泣居たれば、兼時敦行が雲く、被仰る事極たる道理に候ふ、皆押量り思給ふる事也、然れども己等一人が事にも非ず、近来府に露、物不候で、陣の格勤の者共詫申すに依て、此く発り候へば、此れ皆互にて候へば、糸惜く思ひ奉り作ら、此く参て候ふも、極て不便に思ふなど雲ふ程に、此の兼時敦行近く居たれば、腹の鳴る事糸頻也、さふめき喤るお、暫しは笏お以て机お扣お交はす、或は拳お以余に彫入れなどす、守簾起に見遣れば、末の座に至るまで、皆腹鳴合てすひき合へり、暫許有れば、兼時白地に罷立つと雲て、忿て走る様にて行ぬ、其れお見て、兼時が立つに付て、異舎人共追しらがひて座お立て、走お重なりて板敷お下るに、或は長押お下る程に、ひちめかして垂懸けつ、或は車宿に行て、著物おも不解敢ず痢懸る者も有り、或は亦疾く脱て褰て、楾の水お出すが如くに痢る者も有り、或は隠れも不求敢ず痢り迷たり、如此くすれども、互に咲合て、然は思つる事ぞかし、此の翁共、墓々しき事不為せじ、必ず怪の事出してむとは押量つる事也、何様にても、守の殿は〓くも不御ず、我等が酒お欲がりて呑が至す所也と雲て、皆咲ひて腹お病て痢合たり、而る間門お開て、然ば出給へ、亦次々の府の官人達入れ申さむと雲へば、吉き事なヽり、疾く入れて、亦己等が様に痢よやと雲て、袴共に皆痢懸巾ひ繆て追しらがひて出るお見て、今四の府の官人共は、咲て逃て去にけり、早う此の為盛の朝臣が謀ける様は、此く熱き日、平張の下に三時四時炮せて、後に呼入れて、喉乾たる時に、李塩辛き魚共お肴にて、室腹に吉くつヽしり入させて、酸き酒の濁たるに、牽牛子お濃く摺入れて呑せては、其の奴原は不痢ては有なむやと思て謀たりける也けり、此の為盛の朝臣は、極たる細工の風流有物の物雲ひにて、人咲はする馴者なる歙にてぞ有ければ、此もしたる也けり.由無き者の許に行て、舎人共辛き目お見たりとてなむ、其の時の人咲ひける、其より後懲にけるにや有らむ、物不成さぬ国の司の許に、六衛府の人発て行く事おば不為ぬ事になむ有ける、極たる風流の物の上手にて、追返なむにも不返まじければ、此る可咲き事お構たりける也となむ、語り伝へたるとや、